「詩人か人間か?」(詩編139:7-10) [Short Story]
「どこに行けば/あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。天に登ろうとも、あなたはそこにいまし/陰府に身を横たえようとも/見よ、あなたはそこにいます。曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうともあなたはそこにもいまし/御手をもってわたしを導き/右の御手をもってわたしをとらえてくださる。」(詩編139:7-10)
※(写真提供「国立天文台」)
今朝、詩編を読んでて感じたんです。人間はなんて詩人なんだろうって。なぜなら、人間は畏敬の思いをいだきつつ、その心の思いを詩に表せるからです。言葉に命を与え、その詩の言葉の中に、ある種の精神化された形さえ造り出せるんです!素晴らしいことです。
昨日は世界中で金環日食で盛り上がりましたね。日本の動物園では、猿が何となくおびえて太陽を見ていたとニュースでありました。でもサルのそれは、私たちのような畏敬の思いでではないのだろうと思いました。なぜならフラミンゴもオットセイも、普段通りに眠りこけていたそうですから。(^_^;) 実際の所はよくわかりませんが、猿はたぶん、非日常的な宇宙の出来事の様子に、不安がってたのではないでしょうか。あっ、動物に詳しい人に叱られそうですので話を戻します。いずれにせよそうやって私たち人間は、太古の昔から、はてしなく続く宇宙の広さ、高さ、大きさにある意味、おそれおののき、それが詩となってきたであります。
ではなぜ人間はおそれるのでしょうか?それは人間があまりにも小さな存在であるという、ある種、本能的な「影」のような何かに怯えるからだと思うのです。ですから私たちってそうでしょう?ともすると、「価値は大きさに比例する」ってどこか錯覚している所がありませんか?金環日食ははもちろん、人生も、仕事も、生活もそう・・・宇宙のビッグなサイズも、あの問題の大きさも、この人の大きさも・・・そして、その中で、「小さな自分」に愕然とするのです。その発見そのものは悪くないです。でも問題は、その時、自分を悲嘆することです。「ああダメだ~」って。
では実際はどうでしょう?神さまは空の星を人間より価値あるものとして造られたでしょうか?もっと身近な話題のほうがいいですね。たとえば背が私より10センチ高いAさんのほうが、神さまは私より価値ある存在として造られたのでしょうか?(^_^;)
答えは絶対にノーです。私も、Aさん同様、神さまにとって価値のあるかけがえのない存在です。そして私たちはみんなこういう風に感じているのだと思います。どんなに宇宙が広大であっても、こんな微小な人間の方が、はるかに神さまに愛されているって・・・根拠があります・・・「わたしの目にはあなたは高価で尊い、わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4)
アーメン! そうだとすれば人間を襲う正体不明のおそれって一体なんなんでしょうか?それはさっき言いました。人間が詩人だからです。
たとえばギリシヤ神話かなんかに出てくる"何とか大星雲"のことを考えてみましょう。その大星雲は何万光年、何十万年光年、何世紀という距離にある規模のものです。でもその大星雲は、私たちが詩として言葉にしてはじめて命が与えられるのです。その言葉がはじめて神話になるのです。つまり人間の持つある種の「影」が、そのようにするわけです。それが大星雲に命を与え、さらには、畏敬の思いすら創造しちゃってるわけです。
反対から言えばどうなるのでしょう?こうです。”何とか大星雲”も大銀河も、火星も、木星も、人間の「影」によらねば単なる数字でしかないわけです。何万光年、何千万光年というぐあいにです。つまリどんなに宇宙が広大でも、こんなからし種ほどの人間の創造力の影響下にあるということなのです。だとすると、今日教えられることは一体何でしょうか?・・・それは、どんな大きな問題が私たちを圧倒していても、結局のところ、それに命を与えるのも、反対に殺すのも、私たちの思索の問題だということです。思索が詩を作り、その言葉が、大きな規模の問題に命を与えるのです。つまり人間は詩人です・・・
もしそうならば、忘れちゃあいけないことがたった一つだけあります。・・・人間の持つ「影」とは、神さまの形にひとしい影なんだってことです。
ここに根拠があります。このぶ厚い聖書のはじめの所にこうあります・・・「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」(創世記1:27)
そう!私たちの創造力ってまさにこの創造者に似ている証拠。だから「影」とはそこから来る影なんです。だから「影」は恵みなんです。わおー!そうだ!やっぱり私たちは神さまがおっしゃってくださっている存在とおりの存在なんですね。・・・「わたしの目にはあなたは高価で尊い、わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4)これ以上もこれ以下もないのです!だからみなさん、いつもみたいに、大きさという相対的な正体不明の“恐れる”に怯えるのをやめ、ただただ絶対的な神さまだけに”畏れ”ましょうね!畏れは、恐れに勝利します(ヨハネ16:33)。信一
「いま、熱くも冷たくもないあなたへ」(黙示録3:14-22) [Short Story]
「ラオデキアにある教会の天使にこう書き送れ・・・あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。」(黙示録3:15-16)
約2千年前、パウロがパトモス島に投獄されてたある日のことです。彼は幻・・・夢を見たんです。・・・そして七つの教会の一つのラオデキア教会にこのように書き送ったのです。
ところで皆さん真夏のギラギラ日照りの中で、自動販売機のアイスクリームや、ジュースを買ったとします。出てきたそれがもしまったく冷えてなかったらどうでしょう?生ぬるかったらどうでしょう?思わず口から吐き出したい心境になるのではないでしょうか。
ここで神さまはラオデキアの人々の信仰についてそうおっしゃっているのです。ではなまぬるい信仰ってどんな信仰なのでしょか?いっしょに考えてみましょう。
まず、そもそも、信仰の"味"ってどういうのでしょうか?使徒のペトロが聖書にこのように書いていました。「あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。」(Ⅰペテロ2:3)
味わう味とは「恵み深い方」のことですね。すなわちイエスさまの無条件の愛、一方的な恵みです。だからもしそのパーフェクトな"味"をちゃんと味わうことをしていないなら、ひょっとしてそれは、なまぬるい、中途半端な信仰ということになるのかもしれませんね。具体的には、その人の信仰が、その人の生きる人生の中で、行動にまでなっていない・・・そういうことなんだろうと思います。そのような中途半端な信仰の場合、「思わず口から吐き出したくなる」と神さまはおっしゃっているのであります。
18節を見てください・・・ラオデキヤを辞典などで調べてみますと、当時、町は世界的に有名な商売繁盛の町だったようです。黒い羊毛が沢山生産され、その輸出も盛んでした。また何より目薬が世界的に有名だったようです。このように一言でいうと、ラオデキヤは商業、金融の街、豊かな町であったのです。
でもどうでしょうか。この世の豊かさの裏には、いつも信仰の落とし穴があります。人って調子の良い時であればあるhど、往々にして信仰をどっかへ忘れてしまうものなんです。・・・「あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。」(17)
私たちだってまさにそうですよね。順風満帆に見える時、熱い祈りを忘れるんです。なまぬるい信仰に陥るんです。でもそんな時こそ恵みに感謝しそれこそ「勝って兜の緒をしめよ」ですよね。
幻の中でヨハネはそんなラオデキヤに本当の豊かさを教えています。・・・「そこで、あなたに勧める。裕福になるように、火で精錬された金をわたしから買うがよい。裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買い、また、見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい。」(18)
本当の豊さのためには、「火で精錬された純粋な金」、「自分の裸を覆う真っ白い衣類」が必要です。火で練られた試練を乗り越える金。悪の誘惑に打ち勝つ、聖なる白い衣・・・そして何より、心の目にさす「目薬」。これら全てはみな主から注がれるものですね。
19節。「わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。」イエスさまは愛する者を、心から愛するがゆえに、厳しく叱責なさる方なのです。そして20節。「悔い改めよ。見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」
ここを詳しく見ると、いまラオデキアがどうすべきなのかが見えてきます。「熱心に努める」は現在命令法で書かれています。つまり、これからもずっと続けて「熱く熱心」でいなさいという意味です。それに対して、「悔い改めよ」は不定過去命令形です。つまりもう今ここで完了せよです。つまり言いかえますと、これからも「あつい信仰」を失わず、今のマンネリ化した「なまぬるい信仰」とはおさらばしなさいってことです。
いつも申し上げていますが、私たちは弱い者です。すぐに信仰もなまぬるくなってしまう。そんな私たちが今朝教えられていることっていったいなんでしょう?それは、一人ではこの世の誘惑になかなか勝てない。だから、いつも私たちの心をノックしているお方に気づこう。そして味わい深いぶどうの実の源である、ぶどうの木、すなわちイエスさまにしっかりとつながり続けようってことなんだと思いま。・・・今朝は、最後にこの詩編の言葉で終わりにします。「味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。」(詩編36編)・・・ほら、やっぱり主の素晴らしい恵みを「味わえる人」は「御もとに身を寄せ続ける人」なんですよね。主はぶどうの木♪・・・今日もつながってましょう!
「シェマー・イスラエール!」(申命記26:5) [Short Story]
「あなたはあなたの神、主の前で次のように告白しなさい。「わたしの先祖は、滅びゆく一アラム人であり、わずかな人を伴ってエジプトに下り、そこに寄留しました。しかしそこで、強くて数の多い、大いなる国民になりました。」(申命記26:5)
申命記26章の小見出し(新共同訳)には「◆信仰の告白」とあります。つまりイスラエルの民の信仰告白文の箇所ですね。一方的に神の計画により選ばれた神の民イスラエル。その民が主なる神さまから、こう信仰告白しなさいって命令されている所です。12章からこの命令がずっと続いています。
ちょっと話はずれますが・・・聖書にある「命令」を、わたしの友だちは、すぐに、「「不自由さ」とか「縛り」を感じる。」と言います。でもそれははなはだしい勘違いです。友だちは本当の意味ので「自由」をはき違えていると思います。
神さまの命令とは、神さまのように「聖」になれるようにと命じる形で勧めてくれているのです(レビ記の中心)。なぜならば、そこにこそ、本当の平和と自由と祝福があるからです。 だってそうですよね。もし神さまレベルにまで私たちが聖であれば、一切の思い煩い、不安、心騒ぎなど全く存在しないんですもの。
逆にどうでしょう?もし自己中心的な自由への願望が強まれば?やがて我が生じ、プライドや欲がはらみ、結果、どうなるかというと?聖書にこうあります。・・・「欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。」(ヤコブ1:15) だから「キリスト者の自由」という有名な言葉があります。マルチン・ルターが書いた薄い本です。日本語訳もありますので、お勧めです。ぜひ読んでみてください。
さて、その神さまの命令は、現代でもユダヤ人の間で日常守られる「シェマー・イスラエル」というものです。その意味は、「聞けイスラエル」です。しっかり守りなさいというわけです。これから入って行く約束の地、カナン。その地で必ず守り行うべきことを、「シェマー・イスラエル!」って命じているのであります。さてそのシェマー・イスラエルの中の、今日の26章5節から、今朝、デボーション・ガイドから強く教えられたことでした・・・「わたしの先祖は、滅びゆく一アラム人であり・・・」。イスラエルの民はこのように、自分たちの過去を告白するのです。イスラエルが「一アラム人」ってどういう意味なんでしょう?
アラムとは、ヨルダン川西域、チグリス、ユーフラテス川にまでも連なる広大な国々が自分たちの先祖であるという意味です。そういえばアブラハムもウル出身でした(創世記12章)。もちろんそのアラムは、石や木で出来た命のない神々を礼拝する異教徒でした。だから「わたしの先祖はアラム人」、しかもそのアラムの、一アラムにすぎないと、彼らは自分たちを徹底的に低くし、ふり返るのです。
「何もそこまで自虐的にならなくても」・・・と、私などは思ってしまいます。いったいどうしてそこまで自虐的になる必要があるのでしょうか?
よくこういう話を聞きます。「人生に成熟した人とは、良いことだけでなくて、悪いことさえ、ありのままで受け入れることのできる人だ」と。感謝だけでなく、過去の忘れがたいあの罪、この咎も、不正も。決して忘れることはないのです。いやむしろそれをありのままで認めしっかりと受け取めるのです。
皆さんはどうか知りませんが、私などは昔からエクスキューズ人間で、自分の歴史に存在する臭いものには、すぐフタをするクセがあります。あの罪、この不正・・・できれば隠してしまいたい。そう思ってしまうのです。でも、イスラエルの民は神さまの前に、ここまで徹底して露わにし、差し出し、へりくだるのです。一体なぜそこまで?
それは、そのことのゆえに、本来、無き者に等しいこの私が、主に一方的に選ばれ、愛され、救われ、憐れみを受けた。ならば、もう一切合財、神にゆだね切って生きるしか道はない。そこに明日が生まれる・・・そういう告白のレベルにまで立ってるわけなんです。
そういえば円熟した国がありましたね。日本と同じ敗戦国ドイツです。歴代のドイツの大統領は過去の自国の罪の悔い改めを絶対忘れていません。2005年5月にもこう告白していました。・・・「我々ドイツ人は、驚愕と恥じらいを以て、ドイツによって引き起こされた第二次世界大戦とドイツ人によって行われた文明の破壊行為であるホロコーストを振り返ります。・・・・そのことに終わりはありません」(Wikipediaより) これって決して自虐ではないですよね。いさぎよさ、成熟ですよね。だってそこには、「それでも赦されている。」という赦しの確証があるんですもの。それに、ここから確実に未来が始まるという信仰の確信がある。今日聖書箇所の彼らの自虐的と勘違いされるほどのへりくだりは、それと一緒なんだと私は思わされたわけです。
私たちの教会では、「礼拝とは、神を神とし、人間が人間になること。」と定義しています。つまり、この一週間を振り返ったとき、また知らず知らず犯してしまったあの罪この罪この不正。でもこの礼拝で、神の憐れみと慈しみのゆえに、もう一度生まれ変われる、人としてリセットできる。だから悔い改めの告白から礼拝がスタートします。つまり、「私たちは一アラム人にすぎません」というわけですね。これが私たちの「シェマー・イスラエール」の精神なんです。
ですからそのためにも、今日のこの日、しっかりと、たとえどんな人に、「自虐的だ」「自由がない」と大いに勘違いされようが、私たちはへりく下り、その上で、明日に向かって進みましょうね。信一
賛美:「♪大いなる方に」 [Worship]
スタジオV→
祈祷会V→
かんーしゃささげますー
み子ーキリストのー
あいのゆえに
せいーーなるかたにー
かんーしゃささげますー
み子ーキリストのー
あいのゆえに
いまーよわいものよー
さけべゆうしだと
しょうりーの主がともに
おられーる
いままずしいものよー
さけべ富んでいるとー
めぐみーの主がともに
おられーる
かんしゃーします かんしゃーします
ノア会説教録音:「子ろばとイエスさま」(マタイ21:1-11) [Short Story]
「弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。」
まずこの場面がどういう場面なのかを説明します。今日は日曜日です。いよいよイエスさまが十字架にかかる最後の週のはじまりの日曜日です。
8節.「群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」」ユダヤ人たちは、手に手にやしの葉っぱや、自分のぬいだ洋服を使って、道をまるでレッド・カーペットのようにし、イエスさまをほめたたえるのです。「ホザナ、ホザナ!」と叫んで。
・・・この時代、ユダヤの国はローマ帝国に占領されていました。しかし彼らの間では、聖書の預言のことでもちきりでした。ゼカリヤ書にあった預言のことです。「まもなく、ロバに乗った王さまが現れて、ユダヤの国民を救ってくれる。」そう信じていてたのです。 どうでしょうか。この場面を私たちの生活で考えてみるとなんとなく想像ができるように思うのです。「困った時の神頼み」という言葉もあります。自分たちのことで、わらをもつかみたい心境の時、クリスチャンであれ、ノンクリスチャンであれ、必死に祈るのです。子どもの入試、お父さんのボーナス、厄除け・・・お正月あけの厄除け神社は、人だらけです。まさに「ホザナ!」「ホザナ!」です。
・・・でもこれって、自分たちの願望なんですよね。イエスさまはどう思ったでしょう?イエスさまの入京の目的は?そう!十字架にかかるためです。ユダヤ人だけの願いでなく、すべての者の罪や、思い煩い、病をいやすためです。 この二つの違った思いがその後どうなっていくのか?答えは明らかです。ルカ福音書23:20にこうあります。・・・「ピラトはイエスを釈放しようと思って、改めて呼びかけた。 しかし人々は、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けた。 ピラトは三度目に言った。「いったい、どんな悪事を働いたと言うのか。この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」ところが人々は、イエスを十字架につけるようにあくまでも大声で要求し続けた。その声はますます強くなった。」
・・・おわかりですね。「ホザナ!」「ホザナ!」という熱狂が、今度は、「殺せ!」「殺せ!」に変わっているのです。つまり「困ったときだけの神頼み」信仰は、こういうぐあいになる落とし穴があるってことなのです。結局、自分の思いが適わないとわかれば、自分の周りすべてを呪いはじめるわけです。そうすると、心に平安が来るどころか、その反対です。聖書にはこんな言葉があります・・・「わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。」
さて話を戻します。・・・イエスさまは「ホザナ!」「ホザナ!」という人々の賛美を耳にするほどに悲しかったのではないでしょうか?孤独感を感じたのではないでしょうか?両者にはあまりにも大きな隔たりがあったからです。イエスさまは一人ぽっちでした。いや待ってください。もう一人います・・・いやもう一頭。子ロバです。なぜロバなのか、意味を考えてみましょう。
2節を読みます。・・・「もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」 このやりとりはとても興味深いです。イエスさまはもうとっくに、この子ろばを選んでおられる。 当時、ろばというと、貧しい一般の人たちの乗り物です。ろばは荷物運びが得意です。だから我慢強いです。試練にも耐えることのできる動物なんです。でも、反対にどうでしょうか?ろばは・・・とっても頑固なんです。気に入らないと全く言うことを聞きません。ましてや子ロバです。未調教です。乗る側のイエスさまからしたら、これほどまでに、扱いにくい動物はいないわけです。でも、そんな子ろばを、イエスさまは「わたしは入り用だ」っておっしゃってくださっているんです。
ところで皆さん。子ロバって誰でしょうか?子ロバって実は・・私たちなんです。子ロバは、難しい神学のことは何にも分からないかもしれない。人々のように、「ホザナ!」「ホザナ!」って熱狂して賛美できないかもしれない。ロバは頑固、強情・・・でも根は純粋なんです。これからイエスさまがどこへ行くのか、どういう道を行くのか、そして十字架の意味のことも知っているのです。だって皆さん、子ロバの目って?そう。いつも涙ぐんでる目でしょう。ちゃんと十字架の意味を知ってるんです・・・
これから向かう十字架の道のりは決して喜ばしいものではない。むしろ反対です。苦しく、悲しく、痛く、嘆きだらけの旅かもしれない。それこそ我慢強く、忍耐しないといけない。だからこそイエスさまはあらかじめ子ロバを選んだ。子ろばはひたすらに十字架に向かうのです。イエスさまをお乗せして。そしてその十字架の旅が終わったときに、いったいどうなるんでしたっけ?そう。すべての人々に福音の恵み、永遠の命が待っているのです。さっきのユダヤ人もその恵みに与ることができるのです。子ロバはそんな大きな働きに参加できるのです。イエスさまは今日私たちにこのようにおっしゃっているって思うのです。・・・「わたしの目にはあなたは高価で尊いんです。わたしはあなたが入り用だ。」。今週も選ばれた子ろばとして、しっかり生きていければ幸いです。信一
「あなたはキリストの細胞」(申命記9:4-6) [Short Story]
「あなたの神、主があなたの前から彼らを追い出されるとき、あなたは、「わたしが正しいので、主はわたしを導いてこの土地を得させてくださった」と思ってはならない。この国々の民が神に逆らうから、主があなたの前から彼らを追い払われるのである。」
「あなたが正しいので、あなたの神、主がこの良い土地を与え、それを得させてくださるのではないことをわきまえなさい。あなたはかたくなな民である。」(申命記9:4-6)
私たちはみんなきっと大なり小なり努力家なんだろうと思います。だからこれまでに、失敗もけっこう多くあったけれど、まがいなりにもここまで来れたし、ふりかえればこれほどたくさんの報いが与えられているって思っています。・・・そりゃあそうですよね。もしそう思わなければ、人は悲嘆に飲み込まれて、たぶん生きていけないと思うんです・・・もし、そうだとしたら、そこには自分の、たとえある程度にしろ、努力と報奨という前提のような意識があるように思うのです。
だからなんだと思います、だから私たちは、日常において、「どうしてあの人ももっと頑張らないのだろうか?」とか、「どうしてあんな風なんだろうか?」と思ってしまうことがあるのではないでしょうか。イライラします。そこに何があるか?そこにはその努力と報奨の法則が見え隠れしているのです。
でもどうでしょうか。私たちはみんな神さまの外にいます。神さまの中にいるわけではありません。みんなこの世という外です。でも、ある時に、「宣べ伝える」誰かから、キリストを「聞かされ、信じた」(ローマ10:14)から今があるわけです。だから今の新しい命が与えられたのです。だから今の私たちがあり、周りのみんなにもぜひそうなってほしいって願うのでしょう。いわゆる宣教心ですね。すごく正しいことだろうと私も思っています。でも矛盾なようですけど、そこに問題があるのです。
問題はそこで、「どうしてあの人はああなんだろうか。」と考える私たちの思考経路にあるんだと私は思うのです。 私たちがキリストの外にいるように、ほかの人も神さまの外にいます。私の外の外の人のことを、いくら心配したって、はたして問題が解決するもんなんでしょうか?こんなムチャな話はありません。問題は、神さまがあの人をどうしようと考えておられるか・・です。
今日の聖書箇所からそのことを知らされた気がします。神さまの大いなる祝福とは、ただ驚きをもって受け取る性質のものだってことなんです。私たちは元来どこまでも「うなじのかたい民」なんです。「出エジプト以来、ずっと主に背き続けた民」なんです。どんなに自分が頑張ろうが、何を思い何をしようが、報われようのない仕方のない民だったのです。でも、驚きですね!ここで聖書が語っていることは、にもかかわらずこれほど大いなる祝福を受けたのは民の努力とかその報奨とかではまったくないってことです。ただただ神の憐れみと恵みなんだってことです。
このことがわかって今朝私は思ったんです。いかに、あの人のこと、この人の行状を気にしたって無意味だと・・・だってあの人のことを今神さまがどのようにしようとなさっているのか、外の私たちには絶対わからないことなのですから。それは時や、方法ふくめて、今神さまが考えておられることなんです。ただひとつだけ言えることは、その人のためにさえ、イエスさまは十字架で死なれたってことぐらい・・・
としますとね。私たちのとるべき道は?最後にそのことにふれます。・・・私たちは肉的には神さまの外にあるのだとしても霊的には「キリストの体」(Ⅰコリ12章)なのです。つまり外にいらっしゃるイエスさまは、私たちクリスチャンという霊的有機体を通してのみ、内側に働かれるお方なんです。だったら私たちは「あの人は」「この人は」という前に、もっともっと健康なキリストの細胞に徹するべきです。キリストの細胞である私たちがが「オフ」でなく、ちゃんと「オン」になってるときに、その有機体全体もイキイキ機能するのです。そうです。ちょうど誰かさんがあなたに、イエスさまのことを「語って聞かせた」ように、私たちもそのように徹していればそれで十分です。あとは神さまが成してくださいます。信一
若枝会聖書研究会:「シリーズ第三回目~「妻たちよ、夫に従え」」(エフェソ5:22) [Short Story]
今日も若枝会のための「恋愛と結婚セミナー」をします。今日で第三回目です。
今日の個所、「妻たちよ、夫に従え」の言葉が大嫌いだと言う友人がいました。ワンマンな未信者の夫に我慢して我慢して、最後は切れてしまって離婚してしまったからです。今日は結婚におけるカップルの関係性について考えます。
ところでこの「夫に従え」は実は多くのクリスチャンでさえ、誤って理解しているようなんです。そういえば私もそうでした。生前、妻と喧嘩すると(めったにしなかったが)この箇所に赤線引っ張って、こっそりテーブルの上にこれ見よがしに置いたもんです(^_^;)。ほんと、情けない、とんでもない男でした(―_―)!!。 でも今の男女平等精神の現代、この「妻たちよ、あなたがたは、自分の夫に従え」には誰だって抵抗を覚えることでしょう。しかしここを原文で見ると、ちょっと事情が異なってきます。
2. 本論~
(ア) イエスと教会の関係
原文直訳は、「妻たちよ、あなたたちの主人には、主に対する心と同じように・・・」です。ですから訳されている命令調子でなく、「同じよう。」という、その同じことを思い起こさせ、その上で「勧める」ニュアンスです。多くの方は日本語が命令調子だから、直観的に抵抗を感じるのでありましょう。もう少し具体的に本文を見ていきましょう。まずは21節の、「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい」という勧めに私たちは注目する必要があります。この「互い」という言葉は聖書のキーワードのひとつです。たとえばルカ書にこうあります。「あなたがたの間で一番偉い人は一番年の若い者のようになりなさい。また、治める人は仕える人のようでありなさい」。 これは「(わが身を捨て)互いに従う」自己犠牲の愛を教えています。この「互いに」の精神は、聖書のいたるところで見ることができます。そしてこの自己犠牲の愛こそが、人間の関係性、ことさら夫婦関係では大事なんだと教えているのです。
聖書によると、イエスさまと教会の関係は夫婦関係の比ゆなんです。・・・「私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにしたからです。」(Ⅱコリント11:2 新改訳)ここの「あなたがた」はコリント教会です。つまりクリスチャンの私たちのことです。そしてその私たちはキリストの花嫁、妻だというのです。そうすると、「教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。」の意味がより鮮明に見えてくるはずです。別の言葉で言うと夫婦の目ざす関係とは、「花嫁である私たちを愛するゆえに、命まで投げ出した夫キリスト。」そして、「その夫に心からの感謝と尊敬を持って無条件に従う妻である私たち」というイメージなのです。つまり夫婦の結婚関係とは、あくまでも、イエスさまと教会との関係がベースであると言うことなのです。
(イ)男と女の序列
この世の男と女を考えるとき、そもそも、聖書が教える、男女の序列とはどういうものだろうかと考えてみました。Ⅰコリント11:3にこうありました。「すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。」・・・ 一昔前、私たちが若かった70年代ころ、若者を中心に、男も女も皆自由だ、平等だ!ピース!ピース!って叫んでた時代があります。もうこれは死語かもしれませんが「ヒッピー」が現れ、開かれた女性のため、「ウーマンリブ」という運動が盛んでした。その頃女性のための神学というのも流行りました。でも、そこに、混沌と騒動も生まれちゃったのです。 なんと約二千年前にも、ウーマンリブの走りがあったのです。どこに?コリント教会に。女性によって引き起こされる教会の問題解決に乗り出したパウロは、Ⅰコリント書でこう言っています。「神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです。聖なる者たちのすべての教会でそうであるように、婦人たちは、教会では黙っていなさい。婦人たちには語ることが許されていません。律法も言っているように、婦人たちは従う者でありなさい。」(14:33)・・・「婦人は黙れ。従え!」・・・この意味は以前詳しくここで説明しました。⇒ http://shinichi60.blog.so-net.ne.jp/2012-01-28ここで語られていることは、平和の神さまは、男・女、とりわけ結婚した夫婦において、より完成に導くため、「神~キリスト~男~女」という序列と秩序を設けたということです。
「先生、それだと、男がワンマンになってしまいます。」と先ほどの友人が言います。たしかにそうです。でも、どうでしょう。だからといって、妻が夫に対して必要以上に反抗的に出れば?もう完全な戦争です。だから序列により、まずは、このことに気づきましょうということなんだろうと信じます。パウロはこうも言っています。「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」(ロマ12:21)であり、「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。」(ロマ12:14)ということなのであります。「相手と過去は変わらない。変えられるのは自分だけ。」自分が変わると、相手も徐々に変えられていくものなのです。そうやって私は妻に変えられて、今、こうして、皆さんの前に立っています。奇蹟(^_^;)。
(ウ) キリストのからだ
さて、次に31節に注目しましょう。「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。」とあります。父母から離れ、結婚する前提は「離れる」こと、すなわち「自立力」です。いつまでもスネカジリだと結婚はできません。経済も健康も心も霊も・・・そのためにキリスト教では結婚式前、必ず、時間をかけて聖書から学びます。世間体がいいから結婚はキリスト教式でというのとは違います。聖書の教える結婚観を、二人が自立し、一体となれるためにも、励んで学ぶのです。 さらにここに「一心同体」とあります。・・・創世記において人類最初の夫婦、アダムとエバは、そもそも一つのからだ同士でした。アダムの一本のあばら骨からエバが生まれてます(創世記2:22)。もしそうであれば、からだ同士全く一つです。「私はあの形が気に入らないから、鼻は私じゃない。」とは決して言えないわけであります。現に第一コリント書にはこうあります・・・「わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。」(Ⅰコリント12:23)・・・こういうことをしっかり勉強しないといけませんね。
(エ) 妻の役割、夫の役割
結婚関係のことは、コロサイ書(3:18)でも、第一ペテロ書(3:1)でも、そしてこのエフェソ書でもそうですが、一番最初に呼びかけられているのは女性、妻なのです。夫ではないのです。当時は圧倒的な男性中心社会です。(今の日本も実質そうかも?)だからもっとも下位の立場にいたのは女性なんです。その女性に向かってまっ先に聖書は語るのです。イエス・キリストの福音のゆえに、主に従うよう、妻たっちは夫に従えと。これは実にすごいことです!これまでにないまったく新しい思想です。古い律法を越えたまったく新しい視点、クリスチャン的考え方です。また、それができるのは、本質的にみて女性だから出来るというのです。
では今度は男性のことを考えましょう。今日の個所で妻たちへの戒めが、文章三節なの対して、夫へは八節も使っています。ここから神さまの意図が伝わってきます。男性は妻の三倍以上、伴侶を愛する責任があるということです。結婚における夫婦の関係において、女性へは「あなたは出来る」と勧め、いよいよ25~32節の中で、男性にチャレンジするわけです。むしろここに力点が置かれているということです。
当時の律法にこういうのがありました。「もし、彼が別の女をめとった場合も、彼女から食事、衣服、夫婦の交わりを減らしてはならない。」(出21:10)ここで言っている、衣食住とは、前後の文脈からして妻の人生全体への愛と受け取れます。この「愛」は、すでに学んできました。そこらへんで拾っては捨てる「名詞の愛」ではなくって、「がまんして、信じて、期待する」、「動詞の愛」すなわち「アガペー(神さまの愛)の愛」でしたよね。→ http://shinichi60.blog.so-net.ne.jp/2012-02-24-1 しかし男性は、男性中心社会の文化の中で、おうおうにして、「自分は選ばれた者」とばかりに自分を見誤り、その誤った価値観で相手量ってしまう。そういった古い律法主義的な考え方に気づき、反省せよと聖書はチャレンジしているのです。
3. 結論~聖なる三角関係
カップルにおいて神が今日の箇所で私たちに望んでおられることはなんでしょう?それは、夫に対しては、「イエス・キリストが教会を命がけで守ったように、妻を愛しなさい」ということであり、他方、妻に対しては、「命をかけて愛してくれたイエスの愛に対して、献身するようにして夫に従いなさい」ということです。これ以上もこれ以下もありません。どちらにも言えることは、あくまでもイエスさまを中心に、頂点にした聖なる三角関係を作り上げなさいということです。この世の三角関係は最悪ですが、聖なる三角関係はほんとうにお勧めですよ!喧嘩してしまったら、まず、イエスさまを見上げます。その所へ行って、そこから相手を見下します。そうするとその喧嘩がつまらないもになります(^_^;)。喧嘩を通してさえ、互いに成長できます。はい、これで第三回目のセミナーを終わります。信一
ヨハネ連続講解:「イエスについての証し」(ヨハネ5:31-47) [Short Story]
「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。」(5:39-40) 「わたしは父の名によって来たのに、あなたたちはわたしを受け入れない。もし、ほかの人が自分の名によって来れば、あなたたちは受け入れる。」(43)
前回、本当の律法とは?について学びましたね。三十八年越しでやっとこさ歩けた男と、その奇蹟を導いたイエスさまにファリサイ派の人たちは怒り心頭、二人を責めました。 「「安息日」に床を担ぐ(という労働)とはいったい何事だ。「安息日には労働をしてはならない。」と律法にあるだろうが。お前たちは律法違反だ!律法の権威に従えというわけでした。 イエスさまはこの問題について、ある時、きっぱりとこうおっしゃっています・・・「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。」(マルコ2:27)そして権威とは、すべてをお造りになった神に由来するものなのだということでしたね。→ http://shinichi60.blog.so-net.ne.jp/2012-05-09
実はこのような勘違いって、私たちの日常にいっぱいあると思います。いつのまにか主客が転倒してしまっているわけです。 愛しているから注意するはずなのに、いつのまにかガミガミ言うだけになり、あるいは自分の律法にただ従わせようとさばいてばかりの自分。・・・これじゃあ夫婦関係も、親子関係も、子育てもうまくいきっこありませんわね。 そもそも律法とは神さまが聖であるので、その聖なる愛を実現させるために生まれたものです。(出エジプト20章)人を裁くためのものでは決してないわけです。 ではどうすればいいのか?主客を元通りに戻せば良いのであります。
今日の小見出しの聖書箇所、「イエスについての証し」のパラグラフをひと言で言うと、「イエスがいったい誰か、そのことを証しするのはいったい何によるのか?」ということです。その上でイエスさまはこう言うのです。・・・「聖書はわたしを証ししているのに、あなたたちはただ研究しているだけだ。肝心なことにわたしの所に来ない。」。確かに今日も主客転倒の話しのようです。 実はこの問いこそが、ヨハネ福音書の最大のポイントなんですよ。ヨハネはこう言っています・・・「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」(20:31) つまり聖書が書かれたのはイエスを神と信じ。そのことで初めて真の命を得るため・・・だったはずなんです。 ところが、今日イエスさまは、「あなたたちは相変わらず聖書を研究しているだけだ、議論しているだけだ、文字を読んで、話し合ってるだけだ。」と嘆いておられるのであります。 つまり、ここでも主客が転倒しているんです。御言葉が行動になっていないといけないはずなのに、読んでいるだけだというのです。この根本的な問題は聖書を読む側の人間にあるのです。つまり不信仰とはいくら聖書を読んでいたって、その内容を全人的に受け取り、御言葉に生きていない限り、なくなることはないということなのです。
全人的に受け取るためには、約束の聖霊によらなければ絶対に無理です。聖霊さまとはまさにイエスさまが上げられるときに父に願って、父の名で私たちに送られる神のことです。こうあります・・・「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(ヨハネ14:26) このように送られた聖霊によって初めてすべてのことがつながり悟ります。点が線に、線が面に、面が立体になっていくのです。ところが私たちは相変わらず心のどこかで、信仰は信仰、生活は生活というぐあいに切り離して生きているのであります。だから真の命にあずかれないのです。さらに言うと、いつまでたっても、真の平安がやって来ないのです。 あれほど週の礼拝で満たされたはずなのに、教会から一歩離れると、又悩み、苦しみ、憎み、呪い・・・自己嫌悪する・・・そんな自分がいるのです。イエスさまに全き信頼をおいた自分の全人的行動こそが信仰をあらわす唯一のバロメーターのはずなのに、そのことを生活の中では理解していないのです。
たとえば教会でも、しょっちゅうこういうことがあります。 つい最近の出来事です・・・N子さんはそろそろ自分でも奉仕がしたいって感じはじめていました。愛が満ちてきたんですね。そのことでここ最近ずっと奉仕が与えられるようにと祈っていました。一方で教会学校の校長のS男は、教会学校の先生の奉仕者をずっと祈っていました。ある時、牧師と祈っていた時に、N子さんのことが鮮やかに示されました。さっそくS男は、N子さんに話しをしました。するとN子さんは即座にこう答えます。「私には無理です。そんな賜物ありません。私は皿洗いとか、献金とか、受付とかが、向いていると思うのです。」・・・ この場合、N子さんの信仰ってどういうものでしょうか?「聖霊なる神さまが、このような小さな自分も整え、主が「入り用だ」(マタイ21:3)→ http://shinichi60.blog.so-net.ne.jp/2012-04-02 としてくれるからには、どんなことでも、責任をもって出来るようにしてくださる。」と、思ったでしょうか? いいえ。「私が出来ないことは、いくら神さまでもできっこない」・・・そう思っていたわけであります。そこにあるのは何でしょう?全人的信仰でしょうか?いいえ自分一人の信仰です。聖書の御言葉の約束に生きていないわけです。
これが今日のイエスさまの言葉の適用なのだと私は思うのです・・・「あなたたちは・・・聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。」(5:39-40)ぜひ、お互い、「聖書読みの聖書知らず」でなく、聖書の御言葉にしっかりと根づいて生きていきたいものですね。信一
「母の日に贈る~ママ大好き!」(Ⅱコリント8:9) [Short Story]
「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」(Ⅱコリント8:9)
「小さな息子が、ある晩、夕食の支度をしている妻のそばにやって来て、ポケットから小さい紙切れを渡した。何か決心をしたようだった。妻はエプロンで手を拭きながら、それを受け取り読んだ。こう書かれてあった。
●芝生を刈った・・・・三百円
●自分の部屋を掃除した・・・・百円
●お使いに行った・・・・五十円
●ママいない時、弟の面倒みた・・・・三十円
●生ごみ出した・・・・百円
●試験でいい点数取った・・・・三百円
●庭の掃除・・・・百五十円
● 合計 千三十円の貸し
見上げるようにして返事を待ち、そこに立たずむ息子の顔を、妻は笑顔でじっとのぞきこんだ。
さまざまな思いが妻の脳裏をよぎっていた。
すると、妻はペンを取って、息子の目の前で、その紙切れの裏側にこう書いた。
●十ヶ月間、ママのおなかの中で、ボクが育つのを待って運びまわったのは・・・・無料
●幾日も寝ないでボクを看病をして、ボクの病気が治るのを祈ったのは・・・・無料
●いまのボクになるまで、ボクのことで泣きたい思いがこみあげて、涙一杯流したの・・・・無料
●そんなものすべてを足しても、ママの愛の代金は無料。
●こわくて眠れなかった夜も、そうなるとわかって味わった心配も・・・・無料
●おもちゃも、食べるものも、服も、ボクの鼻をかんであげたのも・・・・無料
●そんなものを全部足しても、ママのボクへの本当の愛の代金は・・・・全部無料でいいです。
読み終えた息子の目には大粒の涙が浮かんでいた。
そして言った。「ママ。僕、ママ大好き!」。
そう言うとすぐにその紙に大きな字でこう書いた。
●・・・「全がく支払いずみです!」 」・・・M・アダムスさん(酒井洋子さん訳)参考
イエスさまはいわば父であり母でもあります。なぜでしょう?それはすべての愛をささげることで自らはへりくだり貧しくなられたからです。なぜでしょうか?子どもを愛し、子どもがその愛に気づき、人生においてさらに豊かになるように願ってです。だからこの春の一日は、どんな形であっても、この世に命を与えてくれたお母さんを大事にしましょうね。信一
賛美:「イエスはわれの幻♪」 [Worship]
婦人会五月例会~証し:「祈祷院で思ったこと「勝利への後退」」 [Short Story]
「ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。大勢の群衆が従った。イエスは皆の病気をいやして、御自分のことを言いふらさないようにと戒められた。」(マタイ12:14-16)
まず今日の聖書箇所の出来事の背景を見ておきたいと思います。1頁前の11:2~の所をご覧ください。そこを読んでみます。「11:2 ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」(11:2-6)牢にいたヨハネがふと思ったのでしょう。あのイエスさまはほんとうは一体誰なのか?メシアなのか?それとも・・・そんな疑問が襲った。それで弟子たちに尋ねさせたのでしょう。それに対してイエスさまはお答えになった。・・・「目の見えない人が見えるように、足の不自由な人が歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」この福音の勝利の現実をヨハネに伝えなさいと言うわけです。
ここでつかわれている「死者が生き返る」という表現はほかでもよく見ますが、そのこと自体、既に神さまの支配が実現しているという強調です。つまりそこはもう神の国だということなのです。言葉を変えれば、大いなる勝利はもう目前なんです。でも・・・そういう時に限って、イエスさまは退くのです。なぜこうも「退いたり」「立ち去ったり」するのでしょうか。
マタイ14:13にこうあります。「イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。」。この後、あの有名な五千人の給食の奇跡がおこっています。やはり勝利を目前にして「退く」イエスさまがいます。今日、ご一緒に学びたいのは、後退は何のため?というテーマです・・・ルカ6:12を見てください。・・・「そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた。」 ・・・もう一か所、ルカ5:15-16には、もっとはっきりこうあります。・・・「イエスのうわさはますます広まったので、大勢の群衆が、教えを聞いたり病気をいやしていただいたりするために、集まって来た。だが、イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた。」・・・おわかりですね。後退は祈るためだったのです。
でもどうでしょうか?わたしたちって「後退」と聞くと、すぐどちらかというとマイナス的に、敗北的に取ったりしないでしょうか?・・・それが当然なんだと思います。なぜならそうやってわたしたちは小さい時から、家庭で学校で育てられてきたように思うからです。わたしの父親は典型的に「前進せよ」タイプの人でした。わたしは団塊世代、まわりはどこも競争でした。勝利するためにはもう前進しかなかった。ところが今日、わたしたちは、イエスさまから退くことの大事さを教えられているのです。 もうすこし詳しく「後退」について考えてみましょう。後退すると聞いて、一番わかりやすい例が、病気ではないかなと思います。病気を社会活動面から見たらどうでしょう?病気は社会や生活から、一時離脱することを意味します。つまりこの世的に言えば、そこで一旦、その人の生産性というか、価値がストップしてしまうわけです。つまり普通の健常者から言えば病とはある意味、マイナス要素、つまり「敗北」の色なんです。今回、自分がそうなってはじめてわかりました。病はどうやっても、「敗北感」がつきまとうのです。亡き父の「信一止まるな。前進しろ!」の声が聴こえるような気がしました。・・・でもねみなさん。イエスさまの十字架。これはイエスさま公生涯の最大の勝利ですよね!でもね見た目どうでしょう、それは敗北です。さげすまれ、みじめで、残酷で、痛くて・・・つまり、最後の勝利のためには、必ず敗北の時がやって来るものなのであります。そのことをもう一か所の所で見てみましょう。
第一列王記19章、565ページです。1節から読みます。・・・「アハブは、エリヤの行ったすべての事、預言者を剣で皆殺しにした次第をすべてイゼベルに告げた。イゼベルは、エリヤに使者を送ってこう言わせた。「わたしが明日のこの時刻までに、あなたの命をあの預言者たちの一人の命のようにしていなければ、神々が幾重にもわたしを罰してくださるように。」それを聞いたエリヤは恐れ、直ちに逃げた。ユダのベエル・シェバに来て、自分の従者をそこに残し、彼自身は荒れ野に入り、更に一日の道のりを歩き続けた。彼は一本のえにしだの木の下に来て座り、自分の命が絶えるのを願って言った。「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません。」
エリヤといえば預言者中の預言者です。主にあって、誰をも恐れない神の人でした。しかも18章では異教のバアル崇拝の王女イゼベルの配下の450人もの預言者たちとたった一人で戦い大勝利をおさめたわけです。ところが、イゼベルの「お前を殺す」のこのひと言で、一気に落ち込みます。エリヤも人の子。私たちと同じです。そして?すぐに後退を余儀なくされたのであります。勝利目前の撤退・・・今日のイエスさまと同じです。でも、この退いたエリヤのその後、どうなったでしょう?・・・彼はひたすら眠ります。やがて聖霊にふれられ、食事を与えられ、元気を取り戻していきます。そしてついに神の前に出、神と対話をするのです。ついに、「静かにささやく声を聞いた」のです。そこには当然エリヤの深い祈りがあったことでしょう。なければ静かな神の声など聞こえるわけがありません。エリヤはその声に教えられたとおりに立ち上がり、エリシャと会い信仰を継承し、自分は人生最後の勝利へと進んで行ったのでした。 つまり、エリヤの後退も、最終的には栄光の勝利のためだったのです。
さて、今日の題に、「祈祷院で思ったこと」とつけさせてもらいました。わたしも病になり、静かな山麓の祈祷院へ「後退」してきたからですね。さっきも言いましたが。私も最初、思いました。もうわたしには価値などないのではないか?わたしもエリヤと同じでした。・・・「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません。」そんな心境でした。 ほんとうに病は人を孤独にします。ですからわたしにとって、断食祈祷は最後のチャンスでした。私は本格的な断食は今回初めて経験しました。でも、半断食させていただきました。一食抜きます。食事もいい意味で素食です。みそ汁一杯に、玄米ご飯ひと碗・・・たぶん一日500kカロリーぐらいだったと思います。そのせいでしょうか、最初数日は、疲労困憊でごろごろ眠ってばかりでした。エリヤが「えにしだの木の下で眠った」ようなものです。そうすると、当然、体重は減り始め。しかし、体の中では変化が始まっています。やがて心にも影響が現れます。心の目が研ぎ澄まされていきます。霊的に覚醒していくのです。祈りが深まりました。神さまとの交わりが深まりました。ついにわたしもエリヤが聞いた、あの静かな声が聴こえてきたのです。こんな声でした。・・・「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり/わたしの道はあなたたちの道と異なると/主は言われる。天が地を高く超えているように/わたしの道は、あなたたちの道を/わたしの思いは/あなたたちの思いを、高く超えている。」(イザヤ55:8,9)・・・つまり、「あなたの病は敗北なんかでは決してない。この病の先に、本当のわたしの計画が待っている。このわたしはあなたにそれを見せよう。」と言うのであります。まさにエリヤが体験したことを、わたしも今回、この病を通して経験させてもらったわけです。
まとめたいと思います。・・・人が年を重ねたり、病気がちになったりしますと孤独を感じます。でもその孤独は決して無意味ではないんです。孤独になり「後退」した時、人はいやがおうでも仮面をはずします。そして本音で神さまと対話できるようになるのです。それが出来るということは、病も孤独も後退も、むしろ大いなる恵みなんです。みなさんはどうでしょうか?これまでに孤独を感じたことはないでしょうか?病気のせいでつい弱気になったことはないでしょうか?自分はダメだって、時に涙することはないでしょうか?・・・人間がそんな風に「後退」したとき、そのときこそ、大勝利への道なんだということを、今日覚えていてほしいのです。祈りましょう・・・信一
「小さなキリスト者の独り言。」(Ⅰヨハネ2:3-6) [Short Story]
「わたしたちは、神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かります。「神を知っている」と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません。しかし、神の言葉を守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現しています。これによって、わたしたちが神の内にいることが分かります。神の内にいつもいると言う人は、イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません。」(Ⅰヨハネ2:3-6)
私は自分の信仰をふと振り返るとき、いかに神さまの素晴らしい愛に鈍感で、時には、それを無駄にさえしているのだと知り、がく然とすることがあります。今日がまさにその日でした。だから今日は親父の独り言です・・・
どういうことかといいますと・・・私って神さまの愛をただ「知っている」だけなんです、見てるだけなんです。議論するだけなんです。又、話し合ってばかりなんです。そもそも聖書にある「知る」という言葉は、夫婦の関係を示すほどに、深い意味が込められているのです。たとえば・・・「人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、主によってひとりの男子を得た。」と言った。(創世記4:1)。でも私の神さまの愛を知る「知る」とはせいぜい上辺だけの聖書知識、暗唱聖句ぐらいなんです。
もし神さまが無条件の愛で私を愛していることを「知っている」のなら・・・「わたしの目には、あなたは高価で尊い」(イザヤ43:4)とまで言ってくださっているお方の愛に感激し感謝できているのなら、もう何も欲しいものはないはずです。あとはただただ聖書の言葉に従うだけのはずなのです。ところがこの私はというと、相変わらずなんです。知っているだけ、見るだけ、議論するだけ、話し合うだけなんです。ああー (ため息(^_^;))
「主に従う」といえば・・・創世記のアブラハムがそのひな型ではないでしょうか。・・・「主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」アブラムは、主の言葉に従って旅立った。」(創世記12:1-4a) なんとアブラハムは、一言も言わずにすぐに主に従ったのです。愛する息子イサクを殺して、捧げものとしてわたしに捧げよといわれた時も、翌朝早くにその言葉に従い出発しました。→http://shinichi60.blog.so-net.ne.jp/2011-09-09-2 いったいなぜそこまで服従できるのでしょう?それはアブラハムが、神さまから自分は愛されている。主の導きに誤りはない、ということを混じりけなく百%信じていたからです。だから何もつぶやかず、不安や心配を口にすることもなく、直ちに従い行動しているわけです。
私たちはアブラハムのこの服従と行動によって、彼の神さまに対する深い愛を、「知った」わけです。だとしますとね、この私の愛はどうなるのでしょうか?私はただ「知って」、見て、議論して、話し合っているだけだとすれば・・・私の神さまに対する愛は、どこか大きな大きな問題があるということになるわけです。
ある時イエスさまはこう言われました。「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。」(ヨハネ14:15) またこう言われました。「わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。」(ヨハネ14:24) もし私が神さまの掟を守り、直ちに従うことに困難を感じるならば、それはやはり私の神さまに対する愛に問題があるということです。 この口でどんなに偉そうなことを説いても、又、何をやっても、そこに神への服従がなければ、残念かなそれが今の私であり、私の神さまに対する愛の正直な姿なんです。
よし!また今日からやり直そう!またこうして気づけたのだから。なぜなら従うという行為こそが、私が神さまを信じているという・・・又、神さまをどれほど愛しているかのバロメーターなんだから。信一
「神の国のたとえ話~種まきのたとえ。」(マタイ13:3-9) [Short Story]
「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」(マタイ13:3-9,18-23)
ここでの「種」とは、前後関係からすぐわかりますが「御国の言葉」です。つまり神さまの御言葉です。聖書の御言葉がまかれるわけです。デボーションで、集会で、礼拝で・・・それを土地が受け取ります。つまり土地とは私たちのことですね。
最初にまかれた土地はどこでしょう?「道端」です。道端とは人が行き来する土地。踏み固められた土地。まかれた聖書の言葉もただコロコロ置かれるだけ。そういう土地タイプの人は実どころか、すぐに鳥が来て種を持って行きます。
次はどこでしょう?石地の土地です。こうあります。・・・「ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。」(5,6)・・・皆さんはこういうことってないですか?メッセージ聞いていて、ものすごく感動します。励まされます。これであの悩みは解消だって思います。種からすぐ芽が出たのです。ところがどうでしょう、1日、2日と経ちます。すると出た芽がなくなっていた・・・あれだけ早く出た芽。だからその分、肝心な根もまだはれていなかった。だから同じようにあっというまに消えてなくなってしまった。
信仰って感動したからといって、芽を喜んでいてもダメなのかもしれない。むしろ重要なのは土の深いところに根が張ったかどうかですね。その場合、深くまで根がはるには時間がかかる。じっと待つ忍耐の心が大事。「大器晩成」という言葉もある。大切なのは芽を出すスピードではない。本物かどうかです。自分の感動を聖霊さまのはたらきと勘違いしてはいけないってことだね。
3番目はどんな土地でしょう?「ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。」(7)「茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。」(22)自分の回りにいろいろなものが障害となって、成長を妨げる土地。
ルカ13章を思い出しました。「後の人で、先になる者があり、先の人で、後になる者もある。」。つまりどんなに昔からのクリスチャンだと信仰歴を誇っていても、信仰の確信の持てていない人が、周りにはたくさんいます。これって、いろいろと思い悩み続けるからです。逆に新しいクリスチャンが「先に」なっていく。なぜでしょう?それはその人が「思い悩み続けている」からです。
「思い悩む」というギリシヤ語には、「心が二つに裂かれる」という意味があります。つまり心が「二つに裂かれて」いるのです。そんな人にイエスさまはかつてこう言っています。「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(マタイ6:24)
最後の土地です。23節。「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」ルカ書では、「良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」 良い土地とは、決してあわてない。深く正確に、御言葉を受け入れ、全身全霊をもって、これを守り、時が来るまで、忍耐して、主に信頼することができる人です。そのような人は、聞いた御言葉の祝福のさらに百倍、60倍、30倍の実を結ぶというのです。
さて、今日の話はたとえ話ですから、架空の話ではありません。ごく日常の私たちの生活の話です。そこに真理を見つけるよう、イエスさまが励ましてくれているのです。ではあなたはどの土地ですか?「いやー。お恥ずかしい話、二番です。」とがっくりするだろうか。一番ですと、今日一日、苦汁の心にされてしまうだろうか?
でも今日イエスさまがおっしゃらんとしていることはそんなことではありません、「あなたが悪い」的な裁くためのものではありません。だからイエスさまは、こうおっしゃっているのです。「耳のある者は聞きなさい」(9)。マルコ・ルカ書ではこうです・・・「聞く耳のあるものは聞きなさい。」(マルコ4:9,ルカ8:8)
つまり私たちが今後どうしたいかです。聞きたいのかどうか?どう真剣に受け止め、適用する気でいるのか?もし「聞きたい」って思うなら、その人はやがて、何十倍もの恵みを受け取っていくことになります。だから、聖書を読むときに、自分は「道」だ、「岩地」だ、「いばら」だって悩まないで、むしろ、「よし今日からやり直そう!」そう思いたいものです。だって、イエスさまはそのためにたとえ話をお語りになるのですから!信一
ヨハネ連続講解:「御子の権威」(ヨハネ5:19-30) [Short Story]
◆「そこで、イエスは彼らに言われた。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。」(ヨハネ5:19) ◆「わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」(5:30)
今日もヨハネ書の学びを続けましょう。前回は、エルサレムの町外れのベデスタの池で、38年間ものあいだ病気だった男がいやされた話でした。→ http://shinichi60.blog.so-net.ne.jp/2012-05-05 男はイエスさまに「床を担いで歩きなさい。」と言われ、38年目にして自分の足で歩けたのでした。今日はその後に引き起こされたイエスさまとユダヤ人当局筋との衝突問題です。今日はとくに「権威」について考えてみたいと思います。
男が床を担ぎ歩いたのを目撃して、ユダヤ人たちは怒りをあらわにします。10b節にこうあります・・・「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」 つまり律法を無視して「床を担ぐ」労働をするとはけしからんというわけです。「安息日は労働は禁止されているだろうが!」というわけです。
そもそも安息日って何で、又どこから来たのでしょう。それは昔、主なる神がモーセに授けた「十戒」の中の第四番目の戒めでした。・・・旧約聖書にこうあります。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。」(出エジプト20:8-10a) 確かにそうです「いかなる仕事もしてはならない」とあります。安息日は労働はダメです。でもよく見てくださいね。どこにも「床を担ぐな」とは言ってないですよね。この類、いっぱいあります。これは、モーセ以後、何十年、何百年、何千年と時間経過する中で生まれたユダヤ人の固有の口伝律法だったのです。憲法があり法律条令と細目がより細かく定められているようなものですね。
しかしそもそも律法とは何でしょう?「わたしが聖だからあなたたちも聖であれ」とおっしゃった神さまのようになるための具体的実践のための戒めです。だから土台は愛なんです。それは旧約聖書を見るとよくわかります。「異邦人や貧しい者、やもめ、身寄りのない者を大事にしなさいという」掟をわがものとするための、神の精神の表れの定めでした。ところが時は流れの律法の専門家によって解釈され、愛の精神がいつのまにか、「何何をやってはいけない」という文字になっていったわけです。
ユダヤ人たちは怒り心頭です。5:18にこうあります。「このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。」ここに律法に対する権威問題がクローズアップしたわけであります。
さて18節に注目すべき発言があります。イエスさまは神さまのことを「わたしの父」と呼んでいます。まるでご自分を神と同等な者として主張しているのです。だからユダヤ人たちは、より、律法の権威への冒とくだと怒っていたわけです。
考えてみましょう。権威って何でしょうか。権威と聞くと私などはすぐ国やお役所など”お上”のことを思い起こします。だからユダヤ人のファリサイ派のようなイメージ・・・そういえばひと昔前の役所の人って、いつも偉そうでした(^_^;)。権威を感じてました。やはり聖書にもこんな言葉があります。・・・「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。」(ローマ13:1) 新共同訳聖書にはここの小見出しは「支配者への従順」となっています。しかしながら、こう続いている点を私たちは決して見逃してはなりません。「神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。」(同)
そうです。権威は全て神さまからのものです。権威の源は神ご自身です。ここの所を外してしまうと、実に大変なことになります。必ず権威どうしの衝突が生まれます。オレがオレがと、オレオレ詐欺みたいなもんです。たとえばですね・・・人と人の喧嘩をじっと見ていると、とても興味深いことに気づくと思います。たとえば喧嘩の常套会話にこういうのがあります。・・・「あんた何をするんだ!ちゃんと守れよ!」「テメエ約束したじゃねーか!」「前はそうだったでしょう!」「おい!そんなの聞いてないぞ!」・・・何か気づきますか?そう。ここにはみんなある基準があるんです。で、その基準は、相手も間違いなくその基準を知ってるはずだという前提でもって怒っているのです。
人って自分の基準がいつも正しいって思い込んでいます。だから売り言葉に買い言葉になって、裁きあう喧嘩になってしまうんです。そうしたらそこに神さまの「愛」などありません。あるのは権威対、権威です。
もう一つ私たちの生活で、律法を考えてみましょう。たとえば皆さんは子どもさんを叱る時があると思います・・・学校帰り、玄関に足あと状態に脱ぎ捨てられた靴を見て、あなたはこう言います。「Mちゃん、ちゃんと靴そろえて頂戴!」すぐ部屋に入ろうとするのを見て、「ほらほら、先にうがいと手を洗いなさい。」・・・これって、母として、しつけとしてとても正しいです。なぜなら精神は愛のはずですから。社会に出て失敗しないように。病気がうつらないように・・・でも、どうでしょうか?愛のはずだったのに、だんだんと、靴をそろえないことだけに腹が立ち、手をあらうまで、承知しないという風、その愛が変質していくってことはないでしょうか?つまり自分の基準にあわないということでイライラし始めるのです。本当の精神は子どもへの愛のはずが、いつのまに基準だけ守らせようとなってしまっている・・・そんなことってないでしょうか?
つまりこれが、本質的律法と、人の基準がはいった律法主義との違いです。神の精神と言葉マニュアルとの違いです。 ここでもう一回、今日の所に戻りましょう。19節、30節でイエスさまはこう言っています。・・・◆「そこで、イエスは彼らに言われた。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。」(ヨハネ5:19)◆「わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」(5:30) 30節にきてイエスさまはご自分を「わたしは」と呼びます。それまでは、ヨハネ書の特徴ある言葉の一つ、「(人の)子は」と、三人称で呼んでいたのにです。ここで明らかにイエスさまは、父と子の完全な一致を強調しています。また19節、「見て行う」(新改訳)、又、30節、「聞く」という感覚的言葉も自分の意志を強調しています。やはりここでも父と子の一致が強調されているようです。 19節の「自分からは何事もできない。」はよく勘違いされます。「自分から」とは「独力で」という意味ではありません、「父から離れて独自にはできない」ということです。また30節の、「わたしの裁きは正しい」とは、父が裁くからこそ、わたしの裁きも正しいと言っているのです。
これでお分かりですね。権威はすべての権威の基である神にあるのです。つまりイエス・キリストにあるのです。だからこの世で問題が生じた時、喧嘩になった時、全て神の律法、愛の精神(御心)に立ち帰る必要があるのです。人間の基準だと必ずどこか無理がでます。ではどうすればいいのでしょうか?
最後にそのことお話しします・・・使徒ペテロとヨハネはいい意味で良きライバルでした。その分ペテロは自分基準からいって、ヨハネが気になって仕方ありません。ある時ペテロは、ヨハネのことであまりにも気になることがあってイエスさまにこう尋ねます。「主よ、この人はどうなるのでしょうか」(ヨハネ21:21)。それに対して、イエスさまはこう答えているのです。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」おわかりですね。私たちの基準で考えるのでなくいつもイエスさまを見上げ生きることが何よりも大事なのです。ぜひ自分基準だけの律法主義者でなく、愛の神を見上げて生きる、そんな律法を行う人になりましょうね。信一
「耐えられない試練の意味。」(Ⅰコリント10:13) [Short Story]
「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(Ⅰコリント10:13)
人は神によって神に似せて造られています(創世記1:26)。ということは私たちは、「三位で一体」というキリスト教の神の完璧な愛の関係性でなりたっているわけです。そういった関係性を求め、関係性に生きることを、この人生最大の目的とする霊的な遺伝子をいただいているわけです。だからこそ私たちって好むと好まざるとに関わらず、関係の中に置かれるのです。家族、職場、学校、社会の中に・・・そんな私たちですから、その関係性が断ち切られた状態ほど残酷なことはありません。昔のロシアでは、罪びとを完全な独房の中で孤独状態に置く刑ほど残酷な刑はない。はりつけ以上、と理解されていました。簡単に言うと存在を無視されることほど、人間の尊厳をくじき、惨めで絶望的な試練はないということです。
ある心理学者が実験をしました。マウスを3つのグループにわけました。一つ目のグループには、エサをあげるとき、優しく言葉をかけスキンシップをいっぱいしながら育てるグループです。二つ目はまったく何もしないグループ。完全に無視します。ただエサ与えるだけ。そして最後のグループは、エサの時、決まって電気ショックを与えます。ピチパチと。いわば私たちでいう試練ですね。つまり、過度の緊張とストレスの中に生きるという設定です。どのグループが一番長生きたか?どのグループが一番早く死んだか?あなたはどう思いますか?そうです。一番が長生きです。誰でもわかります。しかし日常でこんな生活がずっと続くとは思えませんね。問題は二番目に長生きしたのは?なんです。何と電気ショックグループです!つまりネズミは試練の中で生きる方が完全に無視されるよりかは長生きするというのです。ましてや関係性に生きるのが本質でもある人間です。試練に生きるほうが、無視され孤立するよか、はるかに意味ある人生を送れるというのです。
典型的、試練のヒナ型については、イザヤ書53章にあります。このところは十字架の受難のメシア(イエスさま)預言で有名なところですね・・・。「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。」(53:3) ここでイエスさまはいわばこの世から、また人々から、徹底的に見捨てられ無視されているのです。彼の公生涯は、いじめにあい、つばきされ、足げにされ、弟子からは裏切られるという、完全孤立状態でした。さっきのマウスなら、ただ死を待つだけの状態でした。しかしイエスさまはどうしたか?「ああ~もうダメだ。」とは思われなかった。そのときイエスさまは、「父よ」と祈っていた。つまりただ父なる神を見上げていた。決して自分を止めなかった。なぜなら、父の崇高なご計画の意味をよく知っていたから・・・。「見捨てられ、無視される」というこの世の痛みと絶望の先に十字架の死と復活という福音があったから。そのことゆえに、人類は救われ、自らも復活する・・・そんな孤独のただ中に深い意味を見いだしていたから。だから人生を最後の最後まで生きぬいた。
さて私たちはどうでしょうか?孤立、孤独におかれると?「ああ~もうダメだ。オレはもう死にたい。」こういう思いに駆られるのであります。そんなとき心の隙間に、必ずといっていいほど悪魔が忍び込んで来てこう言うのです。・・・「そうさ、お前など誰からも愛されてなんかいない。お前は神にさえ見捨てられた奴さ。そうだ、死んでしまえ!」・・・だから日本の自殺者は一向に減らない。でもどうでしょうか?たとえ社会や人々といったヨコの関係が破たんしていたとしても、それでもなお神さまとの関係は残されているのです。なぜならそのためにこそ、神さまは私たちをこの世に創造し、私たちの人生の中に神さまの計画を探し求めるよう命を与えたのです。
イエスさまを見てみましょう。その後どうなったでしょうか。・・・「彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(5) なんとこの犠牲によって人類全体が救われたのです。つまり試練は死に敗北しないのです。否むしろ大勝利をおさめるのです。
私たちにも同じことが言えると思うのです。孤立と孤独の中に、それでもなお神さまと共に生きていると気づき、タテの関係に生きる決心をするとき、周りの人々はそのあまりにも驚くべき聖なる力に気づくのであります。・・・「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」(ローマ12:21)このありえない強さに圧倒されるのです。そしてどこにそんな力がるのだろうと思わされるのです。「弱さの中の強さ」のキリスト教の本質にふれるのです。
私がそうでした。そんな一人のクリスチャンを見て、私もクリスチャンになることを決意しました。つまり、「彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」というわけです。
どうか忘れないでいてください。試練にある人はそうであればそうであるほど、神さまに用いられる人なのです。選ばれた人なのです。それほど神さまはその人を評価しておられる。用いておられる。だからそういう人にはいつだって試練だけではなくて、必ず逃れの道をも用意しておられるのです。
賛美: Open The Eyes Of My Heart♪ [Worship]
Open The Eyes Of My Heart♪ PAUL BALOCHE :作詞作曲 鈴木智博兄:訳詩 感謝!
ひらいてください
主イエスを見るために
わがこころの目を
ひらいてください
主イエスを見るために
たかくあげられた
えいこうにかがやく
主イエスあなたに
あいをささげるため
わがこころの目を
ひらいてください
主イエスを見るために
わがこころの目を
ひらいてください
主イエスを見るために
たかくあげられた
えいこうにかがやく
主イエスあなたに
あいをささげるため
きよいみ名を
ほめたたえるときに
あいとちから
そそいでください主よ
Holy Holy Holy
Holy Holy Holy
Holy Holy Holy
I want to see you
「悔恨の苦しみからの脱出」(ローマ7:18-20) [Short Story]
「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。」(ローマ7:18-20)
昔からこう言われています。「後悔先に立たず」・・・本当にそうだなって思う。何かの拍子に過去のあの事、この事・・・本当に後悔先に立たずだなあって。
そうかもしれない。どんな人もむかしは罪びとばかりだったんですから。聖書にこうあります・・・「義人はいない、ひとりもいない。」(ロマ3:10)
もちろん生きていたら善いことだってあったはず。でもどうでしょうか?それ以上に、思い出してしまうのは?
私の場合は、自分でもあまりにも情けない不正や罪、そして失敗の数々です。思い出すと暗くなります。
毎朝、デボーションで、過去のあの事、この事を思い出しては、主の前にざんげしています。いったいどれだけ、人としての目的をあやまり、周りの家族や、友人たち、社会に迷惑をかけてきてしまったことでしょうか。
さて今日の箇所見ると、今は立派な異邦人の使徒として立たされているパウロでさえ、過去の自分に。。。というか、今でも続く自分自身の「肉的性質」に嫌悪しているシーンです。・・・「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」(ローマ7:24)。
こんな時、普通、人には二通りの生き方があるような気がするのです。一つはその過去にフタをして対処するタイプ。そしてちょっとした過去の成功だけに思いっきりひたり、成功者という仮面をかぶって虚飾の人生に生きる生き方です・・・しかしどうでしょうか、過去の不正や罪というものは、そのままでフタをしておきますと、年を重ねるごとに、個人的に、道徳的に、心理的に大きな不安になるものだと、心理学者は言っています。ほんとうにそうだと思います。なぜなら人は必ず死を意識し始めるからです。必ず過去を清算したいという思いにかられるからです。それゆえに過去の不正や罪を上手く処理できずにいると、やがてその良心の呵責から、心がズタズタに引き裂かれ、心の病にさえなってしまいます。
りっぱな使徒パウロも例外ではなかったようですね。今日の所で、パウロは、かつてサウロだったころの肉的な悪しき思いと心に翻弄されています。 この世に生きる人間とは、難しい言葉で言うと、「肉」の自分です。過去の衣服をいまだに着ている者です。そのために、パウロも人の子です、あの時の悔恨が、情け容赦なく襲いかかって来るのです。
ところです!彼はそんな悔恨の苦しみの後、8:1で思いっきり喜べているのです!これが今日教えられる二つ目の生き方の源です。・・・「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。」彼は古い衣服を脱ぎ棄てて新しい衣服を着ています(エフェソ4:22,24)・・・最後にこのことを考えてみましょう。
思い出してください。この間、人間の「時」には二つあるんだという話をお話しました。⇒ http://shinichi60.blog.so-net.ne.jp/2012-04-28-1 「クロノス」とはただ一つの方向に流れるだけの「時」でしたね。何年何月何日何時、あそこで、あんな事やってしまったという「時」です。もちろんこれはもう逆戻りできません。もう取り戻せないプロセスです。でも人間には人間特有の「カイロス」という「時」が与えられてることを忘れてはいけません。これはそこにさかのぼることができるのです。いやそれ以上に、犯してしまったあの事この事、あの不正や罪をことも解決することができるのです。
もちろん外面的な結果は変わりませんよ。でも、これまでずっと心に重くのしかかっていた過去の不正や罪を再定義し、その罪の持つ影響力をミニマイズすることができるのです。だからもう過去にいっさい仮面をかぶせる必要もなく、その過去と共存しながら、むしろ明るく生きていけるのです。え、どうやって?って、知りたいでしょう。・・・では、さっきのパウロの言葉にもう一回注目してください!「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。」(ローマ8:1)ね。いまわかったでしょう!? 「キリスト・イエスに結ばれている者は」・・・です。このことが、イエスさまが十字架で死んでくださったすべての理由なんです。イエスさまは、私たちの取り戻せないあの不正や罪もろともども死んでくださった。死んだだけだと私たちは生まれ変われなかったでしょう。しかしイエスさまは死んでその三日後に甦ってくださった。だから私たちはそのイエスさまと結ばれているならば、一度死んで、三日後に復活したのです。その時、人間として、霊的に道徳的に精神的に新しく生まれ変わるのです。
ある先生が言いました。聖書は大いなるパラドックスだと。ほんとうにそうです。死んで生きるからです。過去もそうなんです。あの悪質極まりない自分の不正と罪を十字架と共に削除できるからです。そのことによって、いつまでも過去に縛れ縛られ、翻弄されることなく、新生した人間として、明るく楽しくやっていけるのです。そのすべての根拠が 「キリスト・イエスに結ばれている者は」・・・なんですよ!「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。」さあ、これで分かったと思います。もう過去のことでクヨクヨしないで良いんです。イエスの十字架見上げて、今日も主の行進に加わって行きましょう!信一
ヨハネ連続講解: 「ベトザタの池で」(ヨハネ5:1-9) [Short Story]
「さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。 イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」 すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。」(ヨハネ1:5-9)
さて、ヨハネ書の4章まで終わり、今日から5章に入ります。 「エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。」(5:2)とある。
「羊の門」は大きな城壁に囲まれた町、エルサレムの北東にあった門のことです。神殿からは離れたところ・・・近代にはいってからの発見によって、イスラエルの聖アンナ教会という教会の北西30メートルのところにこの池が遺跡として発見されています。そしてそこを取り囲むように、東西に二つ、南北に中一つの渡り廊下いれて三つ、計、「5つの回廊」がありました。
そこはどんな場所だったかというと、「病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。(3)」とあります。当時でいえば、世の人たちから見捨てられた人たち、病人が集まるところでした。普通なら誰も近づきたくない所です。でも今日、イエスさまはそこにおられる。しかも目的の神殿には行かずにですよ。まっすぐここにやって来たのです。なぜでしょう?今日、ご一緒に考えたいテーマです。
さてここに38年間ずっと病気だった人がいました。自分史で考えてみて下さい、この数字がいったいどれほど大変か分かります。男はこれまでずっと、この病から治りたくて治りたくて・・・ただその一心で、毎日ここにやって来ていたのでしょう・・・いやたぶん運ばれてなのかな?「床を担いで歩けなかった」とありますから。 ここはどうやら時間が巡り来ると泉がわき上がる、そんな場所だったようであります。・・・「彼らは、水が動くのを待っていた。」「水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。」(3) だから男は毎日のようにここに来ていました。 でもね・・・とても矛盾するようですけど、彼、本当に治りたいって思っていたと思います?いいえ、どうやら違ったかもしれないんです。なぜそう言えるのでしょうか?
6節を見てください。「イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。」・・・これって実にヘンな質問でしょう!当たり前じゃないですか!治りたいからここにいるのです。この質問、見方を変えるとひどい質問だとは思いませんか?皆さんはどう感じましたでしょうか?イエスさまはなぜこんな意地悪な質問をしたのでしょうか?それはこうです。この男、治りたいといいながら、心のどこかであきらめていたからです。考えてみましょう・・・
38年といわず、たったの1年でも、人間なら誰しもネガティブに、マンネリに陥ります。否定的、消極的に考え始めるんです。マンネリは、いつしか希望というものを殺すのです。すると物事にも無意識で否定的になっていきます。 たとえば皆さんが「私はあの人と絶対に性格あわない」「あの人は私を毛嫌いしている。」と思い込みはじめるとします。それが続きます。すると、そうだ、きっとそうに違いないと、いうネガティブな前提に立ちはじめます。するとその思い込みはいつしか偶像になり、その偶像によって、二度とあの人との仲が改善するとは思えなくなくなっているのであります。
この男がまさにそれだったのです。もう治りっこないというあきらめが心を占領していたのであります。 そういった類の人たちには一つの共通項があります。彼らの話し方、答え方です。7節を見てください。イエスさまの質問に対するこの男の答え方を。・・・「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」・・・わかります?「良くなりたいか?」と訊かれているのに、真っ先に出てるのはエキスキューズなんです。責任は自分にはないというのです。「入れてくれる人がいない。」・・・つまりこの悲惨は誰かのせいだというのです。また、「ほかの人が先に行く。」つまり環境が悪いのです。 これすべて責任転嫁です。自分で心に引き起こすマンネリが悪循環を導いているのです。
イエスさまはそのことを見透かしておられた。「あなたはそのことに気づいてほしい。」「そして立ち上がってほしい」・・・だからこうしてここにいるのです。 今日は「ユダヤ人の祭り」(5:1)です。イエスさまにとって祭りとは父なる神に礼拝をささげる大事な日です。でもイエスさまはその神殿を素通りして、真っ先に、男のいる「池」に直行しているのです。イエスさまは私たちにもそうなさってくれるのです。もう責任転嫁するのはやめなさい。人のせいや、職場のせい、生い立ち、能力、お金のせいにするのはやめなさい・・・イエスさまはそのことに気づかせたいのです。イエスさまは言います。8節・・・「イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」
カウンセリングのセオリーはこれです。「相手と環境は変わらない。変えられるのは自分だけ。」・・・信仰も同じです。信仰は御言葉への「信頼」と自らの決断、「行動」です。男はどうしたでしょう?男はイエスさまの言葉に「はっ」と気づかされたんだと思うんです。だからこう続きます。「すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。」(9)ぜひ今日、気づかせていただきましょう。前回、こんなイエスさまの言葉をご紹介しました。ここでも同じことを言われているように思ったんです・・・。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」(マタイ9:22、マルコ5:34、10:52、ルカ8:48、17:19、18:42、22:32)信一
賛美:「あなたの恵みとその憐れみを♪」 [Worship]
「あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。」(エフェソ2:5)
「行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」(エフェソ2:9)
「あなたのめぐみとそのあわれみを」
作詞作曲:小坂忠師 素敵な賛美と曲、感謝!
そのあわれみを
わたしはほめたたえる
主のみまえで
あなたのにんたいと
そのよろこびを
わたしはほめたたえる
主のみまえで
うるわしい主のあいに
みたされてこころから
あなたをほめたたえ
れいはいします
うるわしい主のあいに
みたされてこころから
あなたをほめたたえ
れいはいします
「地の塩、世の光として」(マタイ5:13-16) [Short Story]
「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。」(マタイ5:13-16)
みなさんは、「ペイフォワード」という映画見たでしょうか?なかなかいい映画です。ぜひお子さんとみてください。11歳のトレバーが主人公です。
ある日、彼の通う学校の授業で、社会科の先生が「世界を善くするために、どうしたら上手くいくと思う?考えて来て一人ひとり発表してください」。と宿題を出す。
トレバーは自分のまとめた考えを発表した。・・・「たとえばある人からやさしくされた人は、誰だって嬉しいからお返し(ペイ・バック)する。でもボクの考えは、こっちから先にやさしく(ペイ・フォワード)する。そうすればみんながやさしい気持ちになれる。」と。つまり「受けるより与えるほうが幸いである」(使徒20:15)というわけだ。
トレバーは黒板に説明するために絵を書いた。(絵)一人が三人にやさしくする。するとその三人も、今度は、それぞれが次の三人にやさしくする。またその次の三人が、それぞれ次の三人へ・・・そうすると?あっという間にやさしさが広がっていく。世界中がやさしくなっていく。やがて差別や戦争や悲惨がなくなる・・・トレバー君はそう考えたわけです。私は思いました。これこそ聖書にあるゴールデン・ルールなんだって!ゴールデン・ルール・・・ぜひ覚えてください。「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」(マタイ7:12)そしてクラスの友だちは、トレバーのこの考えに感化されていく。そこでみんなでペイ・フォワードを実行し始める。すると、周りの人々がどんどんみんなやさしい気持ちになっていった。
だけど映画は残念なことにハッピーエンドではなかった。友だちとのボタンのちょっとしたボタンのかけちがいから、トレバーは殺されてしまう。悲しい結末だった。
しかし私たち映画の観客は、最後のシーンで胸がいっぱいになって感動の涙に包まれる。なぜなら死んだトレバーの家の周りに、信じられないほどおびただしい人たちが、あちこちの町から、いや、世界中から集まって来る。トレバーのおかげでやさしい気持ちになった人たちだ。彼らがニュースでトレバー君のことを知って集まってきたのだ。しかもみんなの手には、一本一本祈りのろうそくが握られていた。
今日イエスさまは、もうひとつのこと、「あなたたちは世の光」とも語っておられます。このろうそくのともしびって・・・そうだ!まさに光です。彼らが握っていたろうそくの光・・・これこそ世に光る光。ともしび一本一本はとても小さい光です。でもトレバーの家の周りに集まってきたおびただしい数の光は大きな光となって、夜の暗闇をも飲み込んでいました。だから彼ら光が、暗闇に打ち勝っていたのです。
イエスさまは光そのものでしたけど、私たちはその光を反射してこの世に発信するものです。イエスさまが「世の光でありなさい」って言っているのはまさにこういうことだって思ったんです。私たちは光そのものでは決してありません。私たちはイエスさまを反射する小さな光です。その小さな光をありのままでともすことが大事なのではないだろうかって思ったんです?
「火のついたろうそくの光は必ず燭台の上に置く。」(マタイ5:15)「寝台の下に置く人はいない」(マルコ4:21)と聖書にあります。そうやってクリスチャンどうし集まると?暗闇が昼間に変わる。
大人はペイ・フォワードが苦手みたいです。でも聖書は言うんです。「受けるより与えるのは幸い」(使徒20:35)だと。考えてみるとこれこそが「ゴ-ルデン・ルール」の動機づけかもしれません。そういえばアッシジのフランチェスコの祈りってまさにこれだったね。「・・・理解されることよりも、理解するものに。愛されることよりも、人々を愛するものとならせてください・・・」。
イエスさまはよく言います。「幼子のようでありなさい。」(ルカ18:17)と。どうでしょう?私たちはいつのまにか、大人になりすぎてしまったのではないでしょうか。そのために地の塩、世の光から一番遠い存在になってしまったのかもしれません。
大人はすぐに言い訳を考えます。恥ずかしい。時間がない。意味がない。つまらない・・・世間さまという偶像も気になります・・・でも映画のトレバーはまっすぐです。彼は意識することもなく、まっすぐに地の塩、世の光を目ざしたんです。
私たちも彼のようにいつまでも幼子のようでいましょう!そして地の塩、世の光らしく生きましょう!信一
ヨハネ連続講解:「いやされた役人の息子」(ヨハネ4:43-54) [Short Story]
「イエスは役人に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われた。役人は、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と言った。イエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。ところが、下って行く途中、僕たちが迎えに来て、その子が生きていることを告げた。そこで、息子の病気が良くなった時刻を尋ねると、僕たちは、「きのうの午後一時に熱が下がりました」と言った。それは、イエスが「あなたの息子は生きる」と言われたのと同じ時刻であることを、この父親は知った。そして、彼もその家族もこぞって信じた。」(ヨハネ4:43-54)
さて久しぶりにヨハネ福音書講解メッセージに戻ります。前回はサマリアの女性から学びました。
→http://shinichi60.blog.so-net.ne.jp/2012-03-31
今日は「その二日後」(43)におこった出来事ですね。イエスさまはガリラヤのカナの町にやって来ていました。そうしますと、「ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。」(45)とあります。なぜでしょうか?イエスさまは「最初の奇跡」をカナの町で行いましたね。→ http://shinichi60.blog.so-net.ne.jp/2012-03-19
そのときの評判がもう国中に行き渡っていたのです。さらに45節を見るとこうあります。「彼らも祭りに行ったので、そのときエルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたからである。」主の祭りのとき、訪ねたエルサレムの神殿で、いつもは温和なイエスさまが、突如怒りを爆発させ、「宮清め」をやりました。境内の商売人たち追い出したのでした。「ガリラヤ人たち」は、その現場を目撃していたのですね。彼らはイエスさまを、「このお方はどこかが違う」と、それら「しるし」を驚きをもって目撃しイエスのことを信じはじめていたのですね。→ http://shinichi60.blog.so-net.ne.jp/2012-03-22
カナの町にやって来ると、一人の男が暗い顔をしてイエスさまを訪ねてきました。カファルナウムに住み、王(ヘロデ王と思われる)に仕える・・・だからたぶん異邦人・・・役人でした。そして彼はこう願うのです。「カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように」(47)。いったいどうしたのでしょう?彼の息子が「死にかっていた」(47)のです。
それを聞いたイエスさまはこう言うのです。「イエスは役人に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われた。」(48)・・・イエスさまの答えはいつも私たちのとは少しずれているように感じます。私だけでしょうか?視点が違うというか・・・イエスさまは役人に「あなたは」とは言わず、「あなたがたは」と言ってるんです。今日はここからお話しいたします。
イエスさまは、役人を前に、「あなたがた」とあえて言っているのです。そこには当然、意味があります。「あなたがた」の中には多くのユダヤ人たちや、現代に生きる私たちも含まれているのです。さきほど紹介したガリラヤ人・・イエスさまを「歓迎した」彼らもそうです。彼らもカナで神殿で、イエスの多くの「しるし」を見たから「歓迎して」いるんです。そのことでイスさまを信じたわけです。イエスさまはそのことを言っているのです。
さて、現代の私たちはどうでしょうか?私たちも彼らと同じで、「しるしや不思議な業」を見て、体験しないとなかなか本気で信じられない・・・そんな事ってないでしょうか?現代は科学の時代です。はっきりした「証拠」、「しるし」、「エビデンス」がないと信じない人々がゴマンといます。私たちはどうでしょうか・・・その後、役人はこう続けます。「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と言った。」(49)
「死なないうちに・・・」とあります。つまりぎりぎりの状態です。信仰というのはいつもそうです。ぎりぎりの状況の中で試されるのです。イエスさまはその瞬間にその人の真の信仰心を見ます。そのぎりぎりの中で、その人の信仰が本物かどうか?信仰が挫けないで成長し拡大しているかどうか。そのことではじめて「成る」ものが成り、「成る」ものも成らないのです。このように信仰と神のみ業はいつだって自転車の両輪の関係なんです。一緒に回転をはじめて、はじめて目的のゴールに到達するのです。
彼はまるで自分を見透かされているようなイエスさまのある意味叱責の中でさらに謙虚にされ、悔い改め、その上で再び真剣な助けを願い求めていたのです。
イエスさまはこの男の切実な祈りに答えられます。そして真の「しるし」を行った。・・・「イエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。」(50) ん??どこに「しるし」??ここにあるのはたったひと言の言葉だけです。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」だけです。で、これがすべて、これで終わり!でもみなさんこれが「しるし」なんです。確かにここには世的なしるしは一切ありません。エビデンスもない。保証もない。情緒的なものも感覚的なものもない。あるのは・・・そうです。イエスさまの言葉だけです。
信仰には「信頼」と「行動」が常に要求されます。彼はどうしただろう?彼はこうしました・・・「その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。」(50)彼は信頼し行動したのです。この時、彼にとって信じるものといえばこの言葉以外はいっさい何もありません。ただこの御言葉にすがりつくしかなかった。彼はそれをした。そして帰って行った。それが奇跡を呼んだ。
ここまでの彼の信仰は、「風に吹かれて揺れ動く海の波」(ヤコブ1:6)のようなものでした。しかしイエスと出会い、「岩の上に建つ家」(マタイ7:25)へと変えられていったのです。証拠があります。この後の展開を見てみましょう。・・・「そこで、息子の病気が良くなった時刻を尋ねると、僕たちは、「きのうの午後一時に熱が下がりました」と言った。それは、イエスが「あなたの息子は生きる」と言われたのと同じ時刻であることを、この父親は知った。そして、彼もその家族もこぞって信じた。」(52,53)
今日のまとめです。・・・ある時、イエスさまは別の聖書箇所でいやされた女性や盲人たちにこう語っています。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」(マタイ9:22、マルコ5:34、10:52、ルカ8:48、17:19、18:42、22:32) さてあなたはどうだろうか?今でも、心のどこかで、しるしを見ない限り、どこか神さまを信じ切れていない自分はいないだろうか?それぞれの心に聞いてみようよ。信一
「自分発見~命の源のある場所」(箴言4:23) [Short Story]
「何を守るよりも、自分の心を守れ。そこに命の源がある。」(箴言4:23)
英国のウェストミンスター寺院の地下の墓。そこに、とある一人の司教の墓石がある。その墓石にこう刻まれているという・・・
「若かった頃、私の力はみなぎり、想像は広がり、私は世界を変えることを夢見ていた。ところが、私は年を重ね、知恵をつけ賢くなり、世界を変えることはたやすくないことを知った。そこで、目ざすところをもう少し近場において、自分の国からはじめることにした。
だがけっきょく自分の国も変わらなかった。
老年となり、私の願いは悲痛な思いに変わっていった。自分の国がだめなら、少なくとも、最も近くにいる家族を変えることにしよう、そう思った。だが、悲しいことに、これすら無力だった。家族もままならなかった。
今、私は死の床で考えている。そしてやっとわかったことがある。変えなければいけなかったのは、自分自身だった。
自分が変われば、家族も大いに変わっただろう。そして、その家族にも励まされ、支えながら、私は国をよくすることもできただろう。そして、やがては世界を変えることさえできたかもしれなかったのだ・・・」
あなたは今住む世界や社会の中で、いやもっともっと小さな世界・・・職場や学校や家庭で、いったいどんなことを思って生きているのだろうか?何かをすること?いや違う・・・どうあるべきか、なんだよね。信一
「真の友情~ペテロとパウロの場合」 [Short Story]
「さて、ケファがアンティオキアに来たとき、非難すべきところがあったので、わたしは面と向かって反対しました。なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。」(ガラテヤ2:11-)
ある時、エルサレムの初代教会のリーダーのペトロは仲間パウロの宣教ぶりを応援するため、アンテオケの町を訪ねていました。 ペトロは町に生まれていた異邦人クリスチャンたちとすぐ打ち解けて、主にある豊かな交わりを喜んでいた。ところが事態が一変した。 それは使徒ペトロがエルサレム教会から派遣されてきたユダヤ人キリスト者の存在を知ったからだ。その後、ペトロは異邦人たちから距離を置き、白々しくなった。なぜでしょう?
派遣されてきたユダヤ人たちは元々ユダヤ教出身者。厳格な律法主義者で育った者ばかりです。彼らは伝統的な律法の決まりの割礼による以外、本物のキリスト者とは認めない律法主義者たちだ。だからペテロは、これまでどおり異邦人と交わり、その現場を見られ、本国に告げ口されるのを極端に恐れたのだ。だからパウロは本気で怒った。それは主イエスの教えに、全く逆行するからだ。そして・・・「面と向かって」ペテロに抗議したというわけです。
これってどうでしょうか?私たちも、けっこうペトロみたいに、他者の目、気にしてるってことないでしょうか?聖書にわかりやすいこんな記事があります。・・・「あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。その立派な身なりの人に特別に目を留めて、「あなたは、こちらの席にお掛けください」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい」と言うなら、」(ヤコブ2:2~3)
教会にはさまざまな人が集まってきます。身なりの良い人、普通の人、教養のある人、政治家、教師、大工さん、無職・・・。またそれが教会です。しかしけっこう知らずしらず差別があったり、メンツが中心になったりしていることがあるというのです。
パウロはあるべきキリストの体の教会をこう言っています。 「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」(ガラテヤ3:20)
差別などあってはいけません。これが真理です。だからそこからはずれメンツばかり気にするペトロに対し、パウロは真の友人として、「面と向かって」・・・わざわざこういう表現使ってます。「キッパリ」という雰囲気が出てるでしょう・・・明確に文句をぶつけているのです。
よくこういう人がいます。「わたしは平和主義者だ。だから彼に文句を言うのやめておこう。いまさらこの年でもめ事はまっぴらだ。それで互いの間に壁ができちゃったら大変だ。」・・・いやこういうことって、私たちの心の中で無意識にわきおこっている思いかもしれないのです。
私は今日、真の友情とは、あるいは真の人間関係とは何か・・・このことであらためて考えさせられました。私は信頼し尊敬している友に対して、このパウロのように、自分のその信頼、尊敬をはっきり表現しているのだろうか、と。そこにある優しさ、あるいは厳しさは、真の友人として愛から出されているものだろうか、と。
私たちって・・・いや私って、自分がつっこんで追及されたくない時は、人に対してそれ以上追求しない。それが優しさだってどこかで勘違いしているフシがあるんです。それ以上自分の痛いところに入ってきてほしくないものだから、人に対してもそれ以上は言わない。そんなとこないだろうか?そういうぐあいにして、ある時は優しく、ある時は厳しくなってはいないだろうか?また面と向かって厳しい時、こういうことだってある。・・・ある問題が自分でもう消化しきれなくなるとパニクる。そこに当然わき起こってくる腹立たしさ・・・それをを相手にぶつけることが、厳しさだと勘違いしていく。つまりこれらってみんな相手にかこつけながら、実は単純に自分への優しさ、あるいは厳しさから来てるだけなんです。
でも、パウロは違うんです。「ケファがアンティオキアに来たとき、非難すべきところがあったので、わたしは面と向かって反対しました。」
そこにあるのは、キリストにあって、真にペトロに対する信頼と尊敬のゆえになんです。彼は互いに成長したいというその動機でもって、「愛をもって真理を語った。」(エフェソ4:15)のです。
えっ?なんですか?なんでそう言い切れるか、ですって?では最後にそのことお話しします。普通どうでしょうか、愛から出ていない文句は、プライド対プライドの衝突を引き起こしがちですよね。人間はプライドの奴隷ですから。しかしペトロは違います。むしろ彼はこの叱責を、キリストにあって自分の成長のバネにしていたのです。
ペトロはある時、教会の信徒に向けこんな手紙を書いています。・・・「また、わたしたちの主の忍耐深さを、救いと考えなさい。それは、わたしたちの愛する兄弟パウロが、神から授かった知恵に基づいて、あなたがたに書き送ったことでもあります。」(Ⅱペトロ3:15)
ペトロは自分に面と向かっていってくれたパウロに対して明らかに信頼し、尊敬しています。「あなたたちはパウロの知恵に従いなさい」と語っているのです。私たちもこうありたいものですね。「面と向かって」言えるかどうか・・・私はそこに真の友情の鍵があるんだと思っています。信一
「何事にも時がある。~クロノスとカイロス」(コヘレト2:1-8) [Short Story]
「何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。生まれる時、死ぬ時/植える時、植えたものを抜く時/ 殺す時、癒す時/破壊する時、建てる時/ 泣く時、笑う時/嘆く時、踊る時/ 石を放つ時、石を集める時/抱擁の時、抱擁を遠ざける時/求める時、失う時/保つ時、放つ時/ 裂く時、縫う時/黙する時、語る時/ 愛する時、憎む時/戦いの時、平和の時。」(コヘレトの言葉3:1―8)
そもそも、「時」って何だろう?たとえばあなたの喋る言葉のことを考えてみよう。あなたが何か話した瞬間から、もうその言葉は過去のものになってるよね。ダメダメ。どんな早口でしゃべっても無駄だ。結果は同じ。もうそれも過去のものだ。聖書の中で「時」という言葉が使われる時、ギリシア語では「クロノス」「カイロス」とちゃんと使い分けられています。そういえば有名メーカーの時計に「クロノス」ってのがあったよね。「クロノス」というのは、いわゆる時計の針が刻む、数量的な時のことです。もう一つの「カイロス」はどうだろう?これは、あえて言うなら、一期一会的な質的時間のこと。今日の聖書箇所の「コヘレトの言葉」に出てくる「時」というのは、まさにそういう意味での「時」だ。
人間は神さまに似て造られたと聖書にあります。すなわち生き方という「質」を求めて生きる生命体が人間なんです。だから本質的に、カイロスに生きる遺伝子が組み込まれている者なんだ。 ただ新陳代謝だけ繰り返して、生命だけ保ってるほかの生き物といっしょでは決してない。それだと犬や猫や花や魚や鳥と同じになってしまう。犬や猫は、生きる本能のために、お腹が減ったとは感じるかもしれないが、どう生きようかとは絶対考えないのではないか。私は犬を飼っていないからわからないのだけれど(^^;)・・・でもはっきりしているのは、どう生きるのが良いかって考えられるのは、神さまに創造された生きものの中では人間だけなのです。そう考えると、どうでしょうか。生きることを考えられること自体、すごい能力、というか、神さまからのギフト(賜物)だよね。だとするとやっぱり、人間ってみんなが皆、どこか知らなくともキリスト教的に生きてるなあって思いません?
でもちょっと待った。いくら良い生き方を考えたとしても、それだけだと困ります。まだ時間があると思って、行動を先延ばしにしていたらどうだろう?クロノスはあっという間に過ぎ去り、時間切れになってしまいます。もし、あなたが、わたしはやっぱり人間だって思ったら、すぐ良い生き方を実行しなければならない。そうでないと、考えたその「時」は、もう過去のものになってしまうわけだから。
クロノスという時は、不思議なことに(不思議ではないのかな?)世界中、等しくみな公平なんです。年齢もない、国籍もない。白人も、黒人も、赤ちゃんも、高齢者も、青年も・・・みんな一日は24時間、一年は365日、同じ条件で生きている。ということは、その人が、その同じ24時間をどう用いるか、何に用いるかでその人の人生のカイロスが決まってくる。その人の人生の価値感が測られる。たとえばあなたの朝の生活で考えてみよう。あなたは、朝起きて、パコンの前に座ってる時間、テレビのニュースを見ている時間、朝ご飯食べている時間、電車で眠りこけている時間、その合計時間と、祈ってる時間、聖書を読んでる時間、正直どっちが長い?つまりそれであなたのカイロスが決まると思うんですよ。
詩篇の90編にこんな言葉がありました。「朝が来れば、人は草のように移ろいます。朝が来れば、花を咲かせ、やがて移ろい、夕べにはしおれ、枯れて行きます。」。わたしたちの人生はまたまたたく間に飛び去っていくものなんです。皆さんは鏡の自分見て、「えっ。これがわたし」って思う時ないですか?若い人はないかもね。最近私はすっごくあるんです。突然白いものが増えているんです。シミも(^_^;)、シワも。本人の相談もなく・・・クロノスがびゅんびゅん飛び去っていってるんです。90:9b-10にこうあります。「人生はため息のように消えうせます。人生の年月は70年程のものです。健やかな人が80年」と。ボクはあと10年ちょっと。あなたは?この作者もクロノスがどんなはかないかを知っているんです。だから作者は最後、創造主にこう祈っています。「生涯の日を正しく数えるように教えてください。」(12)
わたしたちも今日から惰性に押し流されない生き方を目ざそうよ。今決心して始めなければ、わたしたちの人生だって、あっという間にタイムアウトになってしまいます。人の誕生はもうその「時」から死へのカウントダウンなんです。 朝のデボーション、聖書通読、貧しい人たちへの施し、親切、愛すること、赦すこと・・・もし私たちがこうやって、愛とか平和とか光のこと真実のことについて、「世の光、地の塩」として生きることができたら、人生最後の時、そこにすっごい意味を発見すると思うんだ。信一
「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。」(詩編100) [Short Story]
「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。喜び祝い、主に仕え/喜び歌って御前に進み出よ。知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民/主に養われる羊の群れ。感謝の歌をうたって主の門に進み/賛美の歌をうたって主の庭に入れ。感謝をささげ、御名をたたえよ。主は恵み深く、慈しみはとこしえに/主の真実は代々に及ぶ。」(詩篇100:1-5)
今日のこの御言葉はきっと多くの教会で行われる礼拝の時の「招詞」で読み上げられる個所ではないですか?大好きな詩編の一つなんです。この詩篇の中に、私たちの進み行く人生の鍵が隠されていると思ったんです。 → http://shinichi60.blog.so-net.ne.jp/2011-01-03-1 「工事中の人生」 ではっそくいつものように一緒に見ていきましょう。
まず詩編の作者はこう言います。「御前に進み出よ」と。確かにそうです。まずはその場所、主の御前に進み出なければ話になりません。人生は決断だとよく言われます。どちらに進むべきか、どれを取るか・・・もしあなたが今苦しい状況にあるのなら、そこから脱出するためにまずは「選択」です。そして、「決断」です。人にはその「自由」が与えられているのです。その自由だけは、どんな人も誰からも、奪いさられることは絶対ないのです。だから今日こそぜひ決断し、神のみ前に進みい出ようではないですか!
そして次に作者はこう言います。「主の門に進め」。あと一歩、歩を進めるのです。いわばちょっとずつでも前進するのです。昨日よりも今日、今日よりも明日へと成長を続けるのです。 聖書の中の言葉で、この「成長」という言葉はとても重要です。なぜでしょうか。それは成長するには「命」が必要だからです。命があったからこそ、あなただって、あれほど小さい赤ちゃんだったのに、今こうして立派な大人になっているのです。
そうそう。ちょうど今、3.11で震災された方が住む東北では、桜が満開だと昨日のニュースで知って嬉しくなりました。今年のこんな寒い冬、しかもあれほどの災害に遭遇し、まるで死んだかのようだった桜の木に命があったのです。だからそれほどまでに素晴しい満開の花を、被災された方々のため咲かせてくれたのです。 信仰もこれと同じです。信仰に命があるかないかはとても大事なことなんです。あなたの信仰は生きていますか? 生きててもまるで死んだような人だって一杯います。生きましょう。いや主にあって生かされましょう。主と共に成長させていただきましょう!
さあ!向こうのほうに門が見えてきましたよ。ゴールはもうすぐです。そしてついに門をくぐります。作者は言います。「庭に入れ」と。ここが私たちの新しい住まいです!ここからまったく新しい人生が始まります。やっと探しあてた真実の人生の送れる場所です。 ここでは一切、相手に対して怒りを覚えることがないのです。ねたむことも、呪うことも、憎むことも、蔑むことも。そしてそうされることも・・・これまでみたいに自分自身が嫌いになることも、責めることも・・・それ以上に、ここは「共に喜び、共に泣き悲しむ」(ローマ12:15)仲間たちばかりが一緒に暮らすところです。そう。「ぶどうの枝」の家族だけが住む家なのです。
だから今日という日を、希望もって勝利の行進に共に加わろうじゃあないですか!そうだ、「賛美」を忘れないでね。歌いつつ歩くんですよ。賛美とはWorshipです。すなわち主への礼拝なんです。礼拝とは、主にこの私を捧げる献身です(ローマ12:1)だからどこにいても可能です。旅先で、職場で、病院のベッドの上で、キッチンで、学校で・・・主を賛美し、見上げて進み行きましょうね。今日も元気に行ってらっしゃい!信一
賛美:「叫べ全地よ♪」 [Worship]
「Shout To The Lord ♪」
作詞・作曲 Darlene Zschech 訳詞 スリヤ佐野一夫
すくいのきーみー
主のあいたたえるー
いのちのかーぎりー
とりでちから
なぐさめーぬしよー
わがれいーたましいー
あがめよ永遠にー
さけべぜーんちよーうたえー
主のちかーらとえーいこうー
やまもうーみもふーるえるー
御名のとどろきーに
よろこべー御手のーわざをー
とわにあーいしーつかえるー
すべてにーまさるーイエスのーあーいー
「良きしもべの生き方。」(ヨハネ5:20) [Short Story]
「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。」(ヨハネ5:20)
私たちはいつだって主の良き弟子でありたい、良きしもべ(僕)でありたいって願っていると思います。ではそもそも良き僕っていったい何でしょう?今日はそのことを考えてみましょう。
良きしもべ・・・これがもし会社のやり手秘書なら、彼、彼女はボスの心の先、先を読みこなして自ら行動するかもしれません。もしそれが夫婦なら、「お~い。」と言えば、「お茶」を出すかもしれません。(・・・ただし、どっちが「お~い」なのかは、あなたのご想像にお任せします)(^^;)
ボスが、妻が、夫が、今何を願っているか先回りし、予測を立て、マイベストを行う・・・私たちはこういうのを良きしもべって思ってるかもしれません。上司と部下、夫婦の間では、「アウン」の呼吸が大事だって昔、誰かから聞いたことがある。ちゃう。私が部下と亡き妻にそう言ってた(^^;)。
ではどうなんでしょう?私たちも神さまの良き弟子であるためは、これと同じように自分で想像し、先回りし、何かをするべきなのでしょうか?
いいえ断じて違います!今日の個所でイエスさまはこうおっしゃっています。・・・「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。」(ヨハネ5:20)
人の最高の模範、お手本であるイエスさまは「父のなさること」だけしかしないのです。「自分からは何事もしない」のです。つまり聖書の教える良きしもべ、忠実な弟子とは、たとえば「陶器師と粘土の関係」なんです。→ http://shinichi60.blog.so-net.ne.jp/2011-11-17 粘土が花瓶になろうとするのではないのです。陶器師が粘土の状態を把握して、この子はお皿、この子はマグカップ、この子が花瓶と、世界一最高の陶器を作るのです。
そうしますと、話を戻すとどういうことでしょう。私たちの祈りはどうなっていくべきでしょう?きっと祈りも変わってくるはずです。
私たちは信仰に熱心であればあるほどこう祈ってるはずです・・・「神様、私はこうするべきではないでしょうか?」「だからこうします。こうしますから、どうかそれを適えて下さい。」と。
もしも自分が粘土だって自覚できたらどうでしょう?さっきのイエスさまと一緒です。こうなります。・・・「神様、あなたの御心は何でしょう?」「あなたは私を用いて、何をなそうとしておられるのでしょう。その計画へ私を導いてください。」。どこまでも受け身が中心の祈りに変わって来るずです。
ある先生がこう教えてくれました。・・・「誤った質問の出し方は、いつも、誤った答えを手にすることになる。」。本当にそうだなって思うのです。はじめが肝心です。出すときに自分中心だと、それはとんでもない方向にかけだして行ってしまうのです。あくまでも焦点は神であって、私たちではないのです。
だから極端に言わせていただくと、私たちは何をするかではないのだと思う。むしろ何もしないことなんだろうと思うのです。むしろただしっかりと、日々イエスさまにつながることだけに集中すべきなんだろうと思うのです。さて、ではどうつながるかについてです。
「主はぶどうの木、私は枝です」。→ http://shinichi60.blog.so-net.ne.jp/2011-12-22 そうです。まずは何をさておき、イエスさまが神さまにつながるなら、私たちはイエスさまです。ぶどうの木であるイエスさまから注がれる樹液・栄養分を受けとることからです。そうしてはじめて主のご計画が、はっきりと理解できるようになるのです。そりゃあそうです。枝の細胞にまで、イエスさまの愛の樹液で一杯になるわけですから。
逆から言えば、神さまから受けとる愛の満たしなしに、良きしもべになろうとするとどこかで問題が起こります。必ず破綻すると思います。
キリスト教会には「燃え尽き症候群」なる言葉が依然としてしっかり存在します。あれほどいろいろやってた人が、気づいたらいなくなってた。なぜでしょう?その多くの理由は、神さまの愛の樹液を十分に受けとっていなかったからなのです。ただ、クリスチャンだから・・・というご自分の義務感で行動したからなんです。
忘れないでください。信仰のすべてのエネルギーの源は、一方的、かつ無償で与えられ、そして受けとる主の愛だけです。恵みだけです。それ以外何もないのです。まず主の愛をしっかり実感してください。良きしもべになるため、お互いもっとハングリーになりましょう!「あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう。」(詩編81:10)信一
若枝会聖書研究会:「クリスチャンの恋愛と結婚~シリーズ第二回」 [Short Story]
「鉄は鉄をもって研磨する。人はその友によって研磨される。」(箴言27:17)
覚えていますか?第一回目の時、こうお話ししました。・・・恋愛/結婚とは、まだまだ人間として未熟な私たち男女が、それぞれの人生の中で、出会い、神の愛「アガペー」の実現を最終目標にして、そこに向かう成長の機会。そしてそのことの共同作業。そしてゴールは神の愛(アガペーの愛)だということでした。そういった意味で、最高のパートナーは最高の「友人」でないといけない(ヒルティ)と学びましたね。→ http://shinichi60.blog.so-net.ne.jp/2012-02-24-1今日はこの恋愛と結婚における友情関係について詳しく考えましょう。
恋愛関係に入っていったカップルがいたとします。すると一般的にどういうふうに変化していくと思いますか?経験者は語るではありませんが・・・(^^;)巷ではよく「恋は盲目」と言ったりするでしょう。そう。周りが見えなくなりはじめるのです。その分どうなるか?どんどん二人だけの世界、内に内に入っていくのです。要は24時間、365日、いつも二人だけで一緒にいたいわけです。
昔、女性ファンにモテモテの男性歌手御三家の一人で西條秀樹という歌手がいました。彼のヒット曲に「俺はお前のためになら♪地獄に行っても良い♪」というのがありました。これは基本的にクリスチャンも同じでしょう。もしそうだとしたらとても変です。クリスチャンはお互いに、神の国「天国」を目指す旅人のはずなのに、逆に「地獄」に行きたいとは何事か(^_^;)!
内に向った二人は、確実に「盲目」状態になります。二人ともそうなら最後はどうなるでしょう?・・・こうなります。
■ 「盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう。」(マタイ15:14b)
内へ内へと入り込んで行くとき、相手だけしか目に入りませんから、相手がすごくよく見えます。ちょっとした変化に極端に敏感になっていきます。その結果、「最近彼が冷たくなった。」「隠し事してるのでは?」「ひょっとして浮気?」・・・互いが疑心暗鬼になり、やがては破綻の原因にもなったりします。これは大人達の結婚生活も同じなんです。ではどうしたらいいのでしょうか?結論から先にお話ししましょう。二人とも内にでなく、外に向かえばいいのです。 一か所聖書を開けましょう。ルカ福音書1:26-45。一人ずつ輪読いたしましょう。
みんなが知っているクリスマスで有名な箇所ですね。
乙女マリアに現れた天使が、「あなたは聖霊によって妊娠した。」とマリアに告げます。まったくありえないことです。マリアはまだ少女でした。しかし神に選ばれただけあって、固い信仰の持ち主でした。マリアは最後にこう言うのです。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」(1:38)しかしこの時マリアもふつうの女性、人間です。頭では信じたとしても、心まではアジャストできなかったのかもしれません。そんな時は私たちもそうですね、心が騒ぎます。不安がつのります。
恋愛も同じです。相手に対してそんな気持ちになる時が必ずあります。ではそんな時どうするか?マリアはどうしたでしょうか?次の段落にはいり「天使が去った」(38)後、「急いで山里に向かい、ユダの町に行った。」(39)とあります。親戚であり大友人のエリサべトに会いに行ったのです。
では41-45節を読んでみましょう。・・・「マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」
友だちのエリサベトは、マリアの訪問を受けただけで、胎の子がおどったのを実感しています。二人は明らかにソウル・フレンドですね!聖霊に満たされています。友人エリサベトはこの時、明らかに外なる神さまに向かっています。そしてその確信の中でこう言います。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」
この言葉を聞いたマリアは、はっとします。たくさんのこと気づかされます。そしてどれだけ慰められたことでしょう。あれほど心が騒ぎ、不安だった気持ちが解消していくのがわかります。「そうだ。主に信頼していればいいのだ!」そう確信するに至ったのです。その証拠が46節から始まっていく「マリアの賛歌」です。これほどの幸せはないとマりアは証しとして主を賛美しています。
つまり今日の結論です。私たちの恋人関係も、この二人のように内にではなく外に向かうべきだと思うのです。恋愛関係の最中に問題が起きた時。不安が消えない。騒ぎの消えない時。恋人どうしはもちろん、主にある信頼のおける友、仲間、一緒に神に向かい祈りあうのです。これは結婚してからも全くそうです・・・そのことで、必ず神さまは聖霊に満ちた友人の口などを通して、問題解決の糸口をお示しくださいます。この二人の関係こそが、外向きの最高の友情関係なのです。
最後ですが・・・夜、はるか彼方に輝いている「北極星」は、太古の昔から航海士の道しるべでした。その「北極星」は地球から何千光年、何万年光年もはるか彼方です。人間である限り誰も到達しえない距離です。しかしもしも、人がそこを目ざし続けるなら、絶対、道に迷うことはないのです。恋愛もそうです。遠い所にある「北極星」、外なる神さまを見上げながら、二人が恋愛関係を続けるならば、その恋愛は問題が生じたとしても、迷路に迷い込むことはありません。そういった意味でも私たち若枝会は男であれ女であれこのマリアとエリサベトとの関係、外に向かう友人関係、互いに成長を目ざす友情関係だといえます。つまりその関係こそ、今日のとりあげたテーマ聖句のこれです。・・・「鉄は鉄をもって研磨する。人はその友によって研磨される。」信一
賛美:おかにたてるあらけずりの♪ [Worship]
おかにたてるあらけずりの
すくいぬしはひとのために
すてませりいのちをー
(くり返し)
じゅうじかにイエスきみーーー
われをあがないたもうー
じゅうじかのなやみはーーー
わがつみのためなりー
よびとわらいあざけるともー
じゅうじかはしたわしー
こひつじイエスかみのみこがー
つけられし木なればー
あけにそみしーあらけずりのー
じゅうじかにうるわしー
ゆるしあたえきみくするはー
ただ主の血あるのみー
せめもはじもーつらくあらじー
十字架にかわりてー
たまのかむりーうくるときをー
日々まてるわがみはー




















今回あらためて思わされたことがあります。それは家族も、主にあって初めて本物の家族になれるし、結婚も主にあって初めて本物の結婚の道だし、なにより、一人ひとりの人生も主にあってこそなんだって・・・最後に、もう一度。トルコって本当いい国ですよ。シツコイ?




